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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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前回の続きです。

「思考」が様々な取っ掛かりが無いと出てくることがなく、
実は「私」とは純粋な意識であった事に気付くと、周りの世界が非常に迫真を
持って迫ってきているというか、ありのままに見えるというか、
プレステ3よりリアルな圧倒的な臨場感というか、とにかく世界が変わりました。

これは目に見える対象物だけでなく、距離や時間や匂いといった要素全てを含みます。

それらの要素全てが、意識である私が創り出していた、というか私の分身であったのです。
そして今までいかに「思考」に惑わされ、「思考」に操られ、エゴによるストーリーの中にいたか
痛感しました。まさに瞬間ごとに次々とエゴが思考にくっついてストーリーを
紡ぎ出していたのです。


しかし、それらはもう幻だという事も実感しました。幻が消えると、今まで自分がいかに
源泉からの贈り物に気付かなかったか、全て満たされているのにわざわざ目を逸らしていたという
事にも気付くことが出来ました。

なんか一昔前のRPGみたいですが、まさに世界が真の姿を現しつつあったのです。

そうなるともう言葉では言い表せませんが、あえて言うなら何から何まで全てに
「宇宙」を感じました。大げさに言えば全部自分が創ったんだ、という
シムシティで一千万都市を作り上げた時みたいな高揚感を感じたわけです。

朝の光も宇宙、すき家の牛丼の米粒の一粒一粒にも宇宙、雨や風にも宇宙、
ウンコの臭いにも宇宙、台所から玄関までの距離にも宇宙、宇宙刑事ギャバンにも
宇宙を感じました。

既に読んでる人置いてけぼりの状態だと思いますが、
これはモーレツア太郎ならぬキョーレツな至福感を伴います。
今まで付き合ってた女が研ナオコみたいだったのに、スッピンだと佐々木希だった、みたいな
至福感です。

この体験がカッコ良く言えばスピリチュアルな目覚め、悪く言えば単なる危ないオッサンへの
目覚めだったと思っています。

次回以降も読者ブッチギリで続きます。
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だいぶ前ですが、4月12日付の記事で「自転車乗って信号待ちしてたら
”私”が居なくなってどうのこうの」というトンデモ体験談を書きましたが、
続きを書こう書こうと思いながらすっかり忘れており、今日突然思い出したので
書こうと思います。

「私」が居なくなってから、まずお通じが良くなりました。
これはどうでもいいのですが、「私」が居なくなるという感覚が進むごとに
「思考」が出来なくなってきました。

これはどんどんアホになっていくという感じではなく、結局「思考」とは
「思考」をするための前提というか取っ掛りみたいなものが必要なのだという事を
感覚で理解した感じです。

「過去」や「未来」が無いと「思考」は出来ないのです。何かを思うとき、その始まりは
「未来」への希望や不安だったり「過去」の後悔や思い出だったりします。
例えば「痩せたい」という思考は大雑把に分ければ「将来スリムになりたい」か
「昔は細かったから」のどちらかから始まるということです。

これに「私は」が くっついて願望となるわけですが、「私」が居ないと
思考が出来ないので、無になってしまうのです。
つまり「私は以前細かった」⇒「でも今の私は太っている」⇒「私は痩せたい」という
一連の思考が出来なくなるのです。

思考しないということは、つまり最初の取っ掛り部分「私は以前細かった」は
無かったことになってしまうのです。
逆に言えば「私」が本当はいないのに「私は以前細かった」世界を「私は以前細かった」に
意識を向ける事で瞬時に創っているのです。

「私は以前細かった」世界を創れば、それに伴い「思考」が「でも今は太っている」を
選択するかもしれません、そして「じゃあ痩せたい」の流れを作ります。
逆に「でも今も大して太ってないなあ」を選択すれば、恐らく痩せる痩せないの事は思考から
外れます。つまり、その世界は消えたということです。

ここで多くの人が勘違いするのが「では、私は太ってない。を選択します」となることです。
これはちょっと違います、何故なら最初の取っ掛り部分である「私は太っている」を
選択した上で、「太るのは嫌だから」「太ってないを選ぼう」という一連の「思考」の流れから
一歩も動いていないからです。


根本的な原因は「私」が居ると思ってしまった事から始まっているわけですから
「私」が居ないのだと認識することです。
「私」は存在しませんが、前述した「私は以前細かった」に意識を向けたのと同じように、
色々なものに意識を向けることは出来ます、つまり意識としては存在しています。

この純粋な意識しか無い、事に気付く事で私の認識はどんどん変わっていったのですが
ここから先は次回へ続くでござる。
様々なメソッドを読んだり実践したりするのは結構なことです。
しかし、結局はメソッド云々は文字の羅列に過ぎないので、
あんまりこだわりすぎるのも良くないです。

チェスや将棋に例えると、初心者のうちは色んな定跡を覚えたり、手筋を研究しますが
結局は盤面の上でしか、というかルールの中でしか通用しないものです。

自分が負けそうになったときに色々と勉強してきた人ほど定跡や手筋云々にこだわりますが、
負けそうな局面をチャラにするのは実は何の事はない、盤そのものを引っくり返してしまえば
良いだけです。


スピ系のメソッドに対する心構えというか、基本的なスタンスはこれぐらいが丁度良いです。
つまり「色々知ってるけど、いつでも捨てられるし忘れられる、どうでも良いモノ」
というスタンスです。
これはいつでも自分の本質は「無」であるということに還るスタンスでもあります。

最初のうちは色々悩んだり、何だかんだとメソッド探しをするのはしょうがないかもしれません、
しかし「実はそんなもの必要無かった」という事に気付く近道は、
今まで知識として蓄えてきたものを捨てる瞬間だったりするのです。

真面目で常識人で頭の良い人ほど、スピ系に手を出すと悩むかもしれません(真面目で常識もあり、
頭も良い人は最初からこんなブログ読まないのではというツッコミはこの際無視します)

そういった人ほどしっかりと「自分」というコマを盤上に置き、「このコマを望み通り動かすには
いかにすべきか」みたいに真剣に考えてしまいます。

「自分」ありきで、色々叶えたい願望とか悩みがある「自分」をうまく動かさなくてはならない、
なってしまうわけです。本当はそんなコマ無視してちゃぶ台返しを炸裂させればすむ事なのに、
「ここから逆転する手筋」とか「一発逆転定跡」とかを考えてしまいます。

前回も書きましたが、読者の皆さんで「よくわかりません」という内容のメールを送ってくる方も
ちょこちょこいるんですが、そういう方は大体文章もしっかりしてて頭良さそうな印象なんですよね。
つまり「色々知っているが故に盤面を引っ繰り返すという発想になっていない」のではという
感じを受けます。

逆に「すぐにわかりました」とか「やりましたウヒョー」とか送ってくる方々は
印象としてかなり馬鹿っぽい「あまりよく読んでいない、フィーリングで感じてる」感が
強いです。

これは別に真面目な人が悪いとかそういう意味ではなく、真面目に読んでくださっている方は
すでに知識はあるのですから、後はそれにこだわらずに、というかこだわろうとするエゴに
気付けば良い
のですよ、という話です。

まあ結局はこういった提案も、文章にすると「メソッド」になってしまうんですけどね。
ここ最近、ナントカメソッドとか題してメソッドぽく書いてましたが(?)
読み返すと「僕ボクサー」だの「プロゴルファー猿」だの
まともなメソッドが無いことに今更ながら気付きました。

これではいけないと少しだけ思ったので、今回は実用的かつシンプルな
メソッドをご紹介します。

それは「死ね死ね団」メソッドです。
これは文字通り「死ね死ね団に殺された」という設定で「死んだフリ」をするだけです、
まずは一旦死ぬので目を閉じましょう。

しばらく死んでから目を開けて自分の手足を見るのです。
どうなっているでしょうか、恐らく何も変わってないと思います。
何故変わっていないのか、それは「自分」の手足はこのような形である、という
強烈な無意識の思い込みがあるからです。

この普段全く気付いていない強烈な思い込みが、世界を形作っているわけです。
これに気付けば、前も書いたと思いますが世界が徐々に抽象的になっていきます。
「世界」の意味付けというかレッテル貼りが崩壊していくのです。
今まで「これは~ナントカだ」と思っていた概念を壊していくわけです。

「そんな事言ったって私の腕は目の前にありますよ」となるかもしれません。
でもそれは「自分の腕」と勝手に思い込んでるだけで、ただ単に宙に浮いた棒みたいな
物体じゃないですか。死んでるくせにナマ言ってんじゃねーって事です。

既に死んでいるので、今まで色々とレッテルを貼ってきた世界はもうありません。
というかレッテルを貼りようがないのです、死んでるし。

しかし、死んだフリから目を開けたあなたは紛れも無く存在しているはずです。
何処に?それは今まで「自分の肉体」だと思っていたものではなく、世界に。
世界の至るところに既に居たのです。

ていうか、ここまで書いて死ね死ね団を出す意味が無い事に気付きました。
死ね死ね団を知らない人はただ単に「死んだフリメソッド」として実践してください。
昨日の記事「北斗の拳メソッド」について、読者の方からメールを頂きました。
「いくらエゴが幻想といえど、今まで守ってくれていたのではなかろうか」
「守ってくれたエゴをあたたたたたと殺すのは偲びない」というものです。

これは鋭い指摘であります。
まさにエゴは我々がどっか行かないように守っていると同時に、前進させてくれる役目も
果たしていたのです。

前も書きましたが、エゴでどうのこうのとやってる状態は一種の寝ぼけであります。
寝ぼけているだけなので、エゴが居るように見えるのですが、本来はエゴというものすら
存在しません。
が、説明上「エゴ」と「その他大勢」のように分けて書かないと混乱を
招くので、便宜上「エゴ」と「私」みたいな感じで書いています。

寝ぼけ状態で大活躍するエゴは、寝ぼけている世界から「私」を逃がさないために
様々な手段で守ろうとします。つまり「これをやらないと大変な事になるづら」とか
「もっと未来の事を考えないとエラいことになるっちゃ」とか「これはダメだ」とか囁いて
「私」をその場に留まらせようとします。

しかし、同時に「これをやれば何かすごい事になるかもしれない」「成功しちゃうかもしれない」
とか「希望」を「私」に与えて前進させようともします。

アクセルとブレーキを同時に踏むというか、絶妙なアメとムチの使い分けというか、
とにかく「停滞」と「前進」を交互に与えてずーっと寝ぼけ状態をキープしているわけです。

エゴは寝ぼけキープのためならありとあらゆる手段を使います。
今回の「エゴは守ってくれていたのではないか、殺すのは気の毒だ」という読者の方が抱いた
概念は、元を正せば昨日の北斗の拳が原因なわけです。

読者の方は昨日の記事を読んで「そうか、エゴを殺してしまえば・・・」とか思ったかもしれません。
しかし「北斗の拳」⇒「あたたたたた」⇒「ひでぶ」⇒「なんて残酷なんだ!!」というイメージを
利用して、読者の方のエゴが「僕を殺すなんてこんな糞ブログの言うことを信じちゃダメだ!
僕が気の毒だと思わないのか!?」と騒ぎだし、「やっぱりエゴを殺すなんて残酷かも」と
読者の方に思わせたわけです。まさに読者の方が世紀末救世主になることから「守った」のです。

仮に昨日の記事が北斗の拳ではなく「ドラえもんメソッド」とかのタイトルで、
「エゴは幻想です、居ても居なくても良いのです。
そう、のび太がジャイアンと野球やってる場面にいつもいるデブのモブキャラ
ようなものです」とか書いたとしても「そうか、やっぱりエゴは友達なのかもしれない・・・
例えモブキャラだとしても消すなんて偲びない」と読者の方は思ったかもしれません。

なんだかよくわからない例えかもしれませんが、エゴは無意識のイメージや概念を
巧みに利用して居座ろうとします。やっかいなのはそのイメージや概念が絶対の真理であり
自分が(本当はエゴなんですが)抱いたのだ、と感じてしまうことです。


いかに寝ぼけ状態が巧妙に作られているか、という事ですね。

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かなりアバウトな性格の既婚平民

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