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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「この世界は自分が見ている夢で本当は自分一人しか
いなくて、孤独に夢を延々と見続けているだけでは
なかろうか」
的なメールを頂きました、
ありがとうございます。

まあ夢を見ているようなもんだというのはその通り
ですが、自分一人というのが微妙に違います。
これは寝ている時が実は本体、と考えれば良いと
思います。

寝ている時というのは純粋な意識であって、そこに
他のものは存在しません。

で、起きると自己とか他人とかの概念が現れて何やかんや
始まるわけですが、これは全て意識に現れる概念なので
孤独に夢を見続けている自己というものも、
やはり概念であります。

言い換えれば眼球は眼球に映るものだけを見ている
わけで、眼球そのものは見ることは出来ません。

そして眼球に映るものは眼球が無ければ見ることは
出来ませんが、だからといって映ったものが眼球では
無い
のと同じです。

眼球に孤独だとか夢を見続けているとかが映ったと
しても、それによって眼球が破裂したりする事は無く、
それらは眼球の敵では無いわけですね。

ですから実は何かに脅かされるという事は無いので
あります、眼球に映るものが眼球に何の被害も与えない
のと同じで、最初から敵が存在しない、文字通りの
"無敵"がデフォルトです。
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「認識が変わるなり何なりの経験をするのは若い頃の方が
良かったとかありますか?」
みたいなメールをいただき
ました、ありがとうございます。

これはあんまり年齢とか関係無いですね、
映画のスクリーンに映っているのが若い役者だろうが
爺さんだろうがスクリーンにはあまり意味が無いのと
同じですね。

ゲームでもキャラクター達の動きや声は全てゲームの
プログラムの中に入っているわけで、登場人物たちの
会話も経験も全てゲームの中での自作自演とも言えます。

なので何かを経験するというイベントも、結局は
ゲームの中のものであり、経験をする個人というのは
何処にも居ません。

言い方を変えれば境界が無いという事ですね。
ゲーム機はプログラムの上で自分のキャラとその他大勢、
それ以外のものという感じに境界を設けて常に分けて
いますが、境界が無くなれば全て同じものになります。

逆に言えば輪郭が無ければ物の形がわからないのと
同じで、境界を設けるからこそ意識は現れるという事です
、つまり全てが意識の輪郭です。

そしてこのように映画のスクリーンだのゲーム機だのと
いつもおなじような屁理屈を述べる当ブログも、
やはり意識の輪郭です。

このブログがネットに現れる約11年前からもブログという
輪郭を現す前の意識は常にそこに在ったのであり、
誰かが産まれる前も、そして死んでからも意識は
常に在り続ける
のであります。

なのでこのブログは実は人類誕生の前から存在したとも
言えるんですよ、すごいですね(?)
自由意志がどうのこうの、と当ブログではたまに書いて
ますが、自由意志が無い云々だと「では私が今感じて
いる不安や恐怖もなる様になるしか無いのか?」
みたいな
メールをたまに頂きますが、これは以前も書いたかも
しれませんが実は既に質問の中に答えが現れているので
あります。

どういう事かというと「不安や恐怖を感じる」という事は
それらを押さえ込めないという事ですよね?
であるならばその時点で自由な意志は無いのであります。

何故なら意志が自由ならば意志の力で押さえ込めるはず
だからです。にも関わらず押さえ込めないという事は
元から自由な意志が無いから、という事になります。

つまりこれがわかれば自由意志というものも
単なる概念であり、自由意志と言う名の束縛から
離れる事が出来るわけで、それこそが本当の自由で
あります。
認識が変わる、以前と違うものになるとは如何なるもの
でしょうか。スピリチュアル系の書籍等では何かしら
ショッキングな事があってからとか、ある日突然とか、
恩寵のような形でそれが与えられる的な事が書かれている
ことが多いようであります。

いきなり自分は居なかったとか神と一体化したとか
宇宙と合体しましたとかブッ飛んだ事はともかく、
現在のコロナ騒ぎ程度なら簡単に認識を変える事は
可能です。

例えば最近、ハムスターが感染源かもしれないという事で
香港で大量に殺処分されてしまいましたが、
既に哺乳類全般に感染が確認されている以上、
ペットとして飼われている犬や猫から人間に感染するのも
時間の問題というか、もうそうなっている可能性が高い
です。

ではそれが確定したとして果たして愛犬家や愛猫家の
皆さんは涙ながらにペットに毒エサを食べさせるで
しょうか、恐らく絶対にやらないと思います。

じゃあどうするか、仮にある愛犬家が間違い無く
ペットから自分に感染したと思われるケースでも職場に
コロナとは言わず、検査にも行かず、「ちょっと風邪気味
で・・」
で済ませるはずです。

つまりこの方にとってコロナは単なる風邪になったので
あります。ウイルスを自らと分離させ恐れる対象では
なく、日常生活の中の風邪ひいたという一つの現象として
受け入れ、一体化したのであります。

認識が変わるというのは強引に言えばこれに近いです。
分離ではなく受け入れる、自らの中で起こる現象として、
意識の現れの一部として受け入れるという事ですね。

なので私は割りとマジで犬や猫からヒトに感染した例が
はやく出ないかなとか思っています。
そんでもって岸田総理が「ペットを飼っている皆さんには
大変同情致しますが命を守る為に殺処分も検討して頂いて
云々」
とか言い出せば、すごい反感を買いつつも騒動は
終息へ向かうでしょう。
少なくともペットを飼っている人達はほぼ全員コロナを
単なる風邪と認識し出すでしょうから。
最近は無くなりましたが数年前までは「もう死にたい
です」
的なメールが多かったんですよ。

個人的には死にたかったら死ぬのは別に良いと思うんです
が、死にたいです系の人は恐らく肉体的に消えて無くなる
より社会的に消えたいという人が多いと思います。

そもそも死ぬだけなら現代社会は駅のホームからダイブ
したり屋上から飛んだりホームセンターでロープ買って
きて首吊ったりとかお手軽に死ねると言えば死ねます。
にも関わらず実行しないという事は肉体的に死ぬのでは
無く、社会的な死を望んでいる傾向が強いのではと
思われます。

つまり今置かれている社会・環境に対して死にたいっつー
事ですね。簡単に言うともう死にたいですと言ってたら
突然宝くじが当たりましたおめでとうございますと
なったら果たして死ぬかって事です。
「色々チャレンジして頑張りたいです」とかいきなり
前向きになってしまうと人も多いと思います。
という事は死にたいと思っている私というものが最初から
居ないという事ですね。あくまで死にたい、というか
消したいのは状況であるという事です。

なので状況をいちいち批評しない方が良いです、
映画見ててここが気に入らないといって巻き戻して
見てたらいつまでも同じ事の繰り返しです。

もう少し突っ込んで言うと、前も同じ事を書いたと
思いますが、例えば男性なら女装して外出とかすると
とりあえずその瞬間は状況が激変し今まで置かれていた
社会からは離れる感じになります。
これは別に女装最高や!とかいう話では無く
社会的に離れたい、死にたいと思っているものも
結局は女装程度で受け取り方が変わってしまう脆弱な
自己という勘違いの中にしか無いという事であります。

なので肉体的に死ななくても何かしら外見を変えたり
するだけで状況は変わります、言い換えればそれだけ
脆いものを大事に持ち続ける事は無い
という事です。

もちろん女装に拘らずこの寒い中を素っ裸で歩き回っても
状況は激変すると思いますが、そうなるとマジで社会的に
死ぬ可能性が高いのでそれはお勧めしません。

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