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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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最近は無くなりましたが数年前までは「もう死にたい
です」
的なメールが多かったんですよ。

個人的には死にたかったら死ぬのは別に良いと思うんです
が、死にたいです系の人は恐らく肉体的に消えて無くなる
より社会的に消えたいという人が多いと思います。

そもそも死ぬだけなら現代社会は駅のホームからダイブ
したり屋上から飛んだりホームセンターでロープ買って
きて首吊ったりとかお手軽に死ねると言えば死ねます。
にも関わらず実行しないという事は肉体的に死ぬのでは
無く、社会的な死を望んでいる傾向が強いのではと
思われます。

つまり今置かれている社会・環境に対して死にたいっつー
事ですね。簡単に言うともう死にたいですと言ってたら
突然宝くじが当たりましたおめでとうございますと
なったら果たして死ぬかって事です。
「色々チャレンジして頑張りたいです」とかいきなり
前向きになってしまうと人も多いと思います。
という事は死にたいと思っている私というものが最初から
居ないという事ですね。あくまで死にたい、というか
消したいのは状況であるという事です。

なので状況をいちいち批評しない方が良いです、
映画見ててここが気に入らないといって巻き戻して
見てたらいつまでも同じ事の繰り返しです。

もう少し突っ込んで言うと、前も同じ事を書いたと
思いますが、例えば男性なら女装して外出とかすると
とりあえずその瞬間は状況が激変し今まで置かれていた
社会からは離れる感じになります。
これは別に女装最高や!とかいう話では無く
社会的に離れたい、死にたいと思っているものも
結局は女装程度で受け取り方が変わってしまう脆弱な
自己という勘違いの中にしか無いという事であります。

なので肉体的に死ななくても何かしら外見を変えたり
するだけで状況は変わります、言い換えればそれだけ
脆いものを大事に持ち続ける事は無い
という事です。

もちろん女装に拘らずこの寒い中を素っ裸で歩き回っても
状況は激変すると思いますが、そうなるとマジで社会的に
死ぬ可能性が高いのでそれはお勧めしません。
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以前の記事を踏まえて「眺めているだけがいわゆる
プレイヤーでは無くプログラマー視点みたいなもの
なのか?」
というメールを頂きました、
ありがとうございます。

眺めているだけ、と言えばそうかもしれませんが
これは誤解を生みやすいのは例えば目の前で火事が
起きたり地震が起きても ( ´_ゝ`)フーン とかなっている
わけではありません。その時はその時で何らかの
リアクションはするでしょう、ただそれらも含めて
意識の反映であるというだけの話です。

で、プログラマーとプレイヤーの最大の違いは何か?
と言うとプレイヤーは基本的に物語を追う立場ですよね、
ドラクエで言えば王様の所に行って武器とお金もらって
仲間を集めて、話を進めると魔王の存在が明かされて、
みたいな感じで常に物語を追っていくのがプレイヤー
です。

それに対してプログラマーは物語を作る側、言い換えれば
物語を追うのではなく、物語の方が追っかけてくる立場
であります。

つまり今に在るとか何だとかいうのは意識が映し出す
物語の最先端に居続けるという事で、
これが逆にプレイヤーであると思う、つまり自己が
存在すると思っていると物語の先を追う事がやめられない
わけです。

まあこれは当たり前の話で、プレイヤーであるならば
物語を追わないと話が進まないので常に追う事しか
出来ない状態になります。
しかしプログラマーであるならばそこに居れば物語の
方から追ってくるので、特に何かする必要は無いと
いうか、何もする必要を感じないという事であります。
「私は花粉症でしたが、鼻水がズビズビ出るのは
呼吸をしているのと同じで勝手に出るものである、
と認識してから花粉症から一歩引いたような感じになり、
結果として何となく改善されたように思います。
花粉症を通じ自己とはイメージであるとわかった感じ
です」
みたいなメールを頂きました、
ありがとうございます。

これはその通りで呼吸と同じくあらゆるものは全て
起こっているだけである、と認識すると全てから一歩
引いて眺めている感じになります。

眺めているという事はそこに自己は介在していない
いう事になり、例えば雨が降っていてもただ眺めている
だけ、永遠に雨が降り続こうが何だろうがただそこに
雨が在るだけ、という感じになり、そこに自己は存在
しません。

これは花粉症とか以外も全て同じで、例えば預金通帳の
残高とかも雨と同じで降ったり止んだり、
つまり増えたり減ったり勝手にするものであります。

「いや、そんな事は無い。この前銀行からお金下ろした
やんけ」
となると思いますが、そういった行動も勝手に
起きたり起きなかったりだとすると、結局は預金の残高の
増減には誰の介入も無い、という事になります。

つまりいきなり話のスケールが大きくなりますが、
人生に介入している誰かは実は何処にも居ないという事
です。人生に介入している誰か(自己)は
文字通り想像の中にしか居ないのであります。
以前の記事で宿命がどうのこうのという内容を
書いたんですが、宿命という事はいつまでも(現状が)
変わらないのか?的な不安を覚えます、
みたいなメールを
結構頂きました。

これは「現状が変わらん」という事は、言い方を変えると現状を確認しているからこそ変わらん、という事になります。

ですから「宿命なのだから現状が変わらずこのままなのか?」という思考自体が現状の確認になってしまっている、という事
なんですよ。

つまり宿命というと大袈裟なイメージがありますが、
要はいちいち現状を確認せずに運ばれて行けば良いっつー
だけの話で、ここが前回の記事と被るんですが
宿命だ何だとある特定の言葉なり何なりに執着して
しまうと、それを元に新たな感覚ガーとか新たな
意識ガーとかなって輪廻転生を繰り返してしまうのであります。

ですからちょっとテクニック的な話になりますが、
印象に残る特定の言い回しや言葉ほど忘れた方が
良いですね、例えば「我々は宿命の元に運ばれている!」だと「そうなのか!?では今の私の現状も宿命なのか!このまま
死んでいくのか、何て事だ!」
とか
色々考えるかもしれませんが、「我々は生まれた都道府県
の、すき家の店舗数によって人生が決まっている!」
だと「何言ってんだコイツは!」と思うと思います。

しかしこれ同じ事言ってるわけですよ。
違いは一つで、前者の宿命云々の言い方の方が
強く意識してしまうというだけです。
つまり我々は常に「意識の癖」を見ているだけなんですよ。
て事はそれを見ている何者かは意識でも何でも無いという
事です。
頂いたメールの内容で結構多いのが「これこれこういう
感覚になったのだが、これが自己がいないとか何だと
いう感覚なのか?」
というものですが、あんまり
こういった感覚とか拘らない方が良いと思います。

そもそもそういった感覚になったのは何故か?を
突き詰めると大半の方がスピリチュアル系の書籍を
読んだとかブログを読んだとかYouTubeで見たとかだと
思われるのですが、であるならばそういった類の物を
見たり聞いたりしなければその「感覚」は現れなかったと
いう事になります。

つまりボクシング始めたから強いパンチを打つ為に
この辺を意識しようとか、ベンチプレスで100キロ
挙げたいからこの辺りの感覚がどうこう言っているのと
変わらないんですよ、つまりスピリチュアルもボクシング
もベンチプレスも全て意識の現れであって全て同じ
なんですね。

で、少し話が飛ぶんですがスピリチュアル的な気付き
みたいのは確かに素晴らしい解放感はあります。
しかしだからといって人類全体がこれを得れば戦争が
無くなるとか世界平和が実現するとか言い出して、
その為の活動を始めるのは決して悪い事ではありません
が、結局意識が生み出した感覚に捕らわれているとも
言えます。

例えば便秘気味でトイレで踏ん張ってスポンと
出たら解放感ハンパねえと感じるかもしれませんが、
だからといって人類全てがこの解放感を得れば
平和になるから世界中に下剤を配ろうとかは
思いませんよね。しかしスピリチュアル的なものだと
ヒジョーに素晴らしく思ってしまうわけですが、
それはまだ意識の中に居る状態です。

本当の意味での解放は、意識の外に出て行く事で
あります。

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