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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「自己が消えるとか世界と一つとかいうのには
どうやったら良いの」というメールを度々
頂きますが、かなり強引に方法論に持っていく
ことは出来ます。

まず我々が大きく勘違いしているのは運動
いう知覚なんですよね。

例えば株価の終値に印を付けていくと、いわゆる
チャートになって株価が上下動しているように
感じるじゃないですか。
でも実際に株価が飛んだり跳ねたり運動を
しているわけでは無いですよね、月曜日の株価と
火曜日の株価はその時だけの数字に過ぎません。

しかし我々はそこにある種の法則というか、
株価の上下動という"運動"を見てしまいます。
というか見ようとしてしまいます。

これが問題なわけで、運動をしていないものに
対してそれを見ている方は運動を知覚して
しまっているのは明らかな知覚不全であります。

そして運動をしていないものに対して
法則性を見出そうとするのもおかしな話と
なります。

つまり運動をしているという知覚が錯覚であると
認識すると初めて"それそのもの"になる事が
出来ます。今まで運動をしているという
錯覚によって、知覚されるもの(物体)と
知覚するもの(私)という二つに別れた状態から
一つへ統合されるわけです。

こうして統合されると、やや強引ですが
もはや始まりという運動も無ければ終わりという
運動も無い
という事になり、結果的に自分は
生まれてもいないし死んでもいない、という事に
なります。
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前回の記事の続きみたいな感じですが、
完全に自己が居ないというのはどういった事かと
補足しますと、例えば呼吸してる時なんか
わかりやすいと思うんですが、思いきり吸うには
まず思いきり吐く事です。

思いきり吐けば、勝手に息を吸い込む事をやって
くれるので、そこに息を吸おうという自己は存在
しません。これが何処をどう意識してどういう
タイミングで、とかやってると逆に呼吸が難しく
なってしまいます。

そしてこの息を吸ったり吐いたり感じる動作に
呼吸と名付けて、そこから「では呼吸をしている
ものは私の肉体である」とか勘違いするわけで
す。

つまり自己という勘違いの最たるものである肉体
から如何に離れる事が出来るかが要点です、
逆説的ですが肉体から離れると結果的に肉体は
理想的に動いてくれるのであります。

思いきり吐いて、結果として思いきり吸い込む事
でどれぐらい酸素を取り込むかとかは当然
わかりません。まさに神のみぞ知るという奴です

しかしこれは神のみぞ知るから運任せという
意味では無く、自己や肉体という概念から
離れるほど神を体現するという事であります。
「離人症になった事がありますが、自己は
確かに消えましたが全てが無意味に感じ、
大変に辛いものでした。スピリチュアルで
言われる自己が無いとか何だとかと何処が違う
のか」
というメールを頂きました。
ありがとうございます。

離人症てよく知らないんですが調べてみると
パニック障害とかも絡む精神疾患の一つみたい
ですね、これはもう普通に病気であって
スピリチュアルとは特に関係無いですね。

自己が居ないと感じると、本当に自己が消える、
は似て非なるものであります。

例えば口の中に何か入ると、その味によって
何かが口の中にある、と判断するわけで
何も食ってない場合は当然何の味もしません。

自己が居ない、と認識するのはこの状態で
何も味がしない、だから口の中に何も無い、と
感じているわけです。まさに味気無い状態で
あります。これでは確かに全てに意味が無い
ように感じられて苦しいかもしれません。

これに対して本当に自己が消える、というのは
口の中云々というのは、何かしら味を感じないと
出て来ないわけで、つまり口も味もお互いが
お互いを補完する関係性の中でしか存在出来ない
という事を知る事です。

なのであらゆる物は最初から存在せず、関係性の
中において存在するかのように振る舞うだけ
あります。
口の中がどうのこうの以前に、口の中自体が
最初から存在しなかったという事です。
だいぶ昔の話ですが「人は他人のイメージの中で
しか生きられない」みたいな事を故・野村克也氏
が言ってた記憶がありますが、これはその通り
だと思います。

分離を前提としている自我において、他人を
イメージの中で分けるのは当然と言えば当然で
あります。

例えば以前私が「選挙は自民党に入れました!」
と書いたら、ある人からは「私も自民党に入れま
した、知らんさんと同じで何となく良かった
です!」というメールを頂くと同時に「自民党に
入れるとは何事か!ふざけてんのかテメー!」
いうメールも頂きました。

つまり私も含めて人は誰かのストーリーの中では
ヒーローであり、誰かのストーリーでは悪役
なんですよ。これは良い悪いではなく、必ず
誰もが誰かの中ではヒーローと悪人の役割を
同時に担っています。

肝心なのはあくまでもヒーロー、あるいは悪人と
いう役を当てはめているという事です。
つまり本当のヒーローも本当の悪人も居らず、
その役をあてられた人が居るだけです。

これは他人に対してだけではなく自己に対しても
そうで、例えば誰かに嫉妬している場合、
自己より優れている人という役割を誰かに与え、
自分には劣っている人という役割を与えています
。そうしないとストーリーが始まらないからです

しかしここで注目すべきは優れている人と
劣っている人という役割を与えているのは
誰かという事です。あたかも脚本家のように
様々な人に役割を与え、その中でストーリーを
展開しているだけではないかという事です。

つまり優れている人も劣っている人も、そして
自己というものも、文字通り最初から存在して
いないんですよ。
存在しているように見ているだけだったので
あります。

こうなると今までのストーリーの中での
悩みやその他は、全部消滅するという事に
なります。
何故なら悩んでいる私、そして悩みの原因に
なっている何か、あるいは誰かは、その役割を
わざわざくっ付けていただけだからです。
スピリチュアル系の本とかで「何もしなくて
良い、あなたは大丈夫である」みたいな言い回し
がありますが、これは間違ってはいませんが、
受け取る側が誤解する可能性が高いのではと
思います。

よくあるのが「何もせずにいますが、どんどん
貯金は減るし体調は悪くなるしで、このままでは
死にそうです。」みたいなもので、これは
"何もしなくて不安な自分"にとどまってしまって
います。

少し話が逸れますが、自分と思っているものは
コロコロ変わるもので、決まったものなど最初
からありません。別に変わったら変わったで
それで良いので、変に固執しない方が良いです。

例えば私の場合、二十代の頃は殆ど反出生主義
だったんですよ。正直言って子供が大嫌いでした
し、一昔前に流行ったDINKS(ダブル・インカ
ム・ノーキッズ、意識的に子供を作らない
共働き夫婦の事)が良いとか思ってたんですね。

で、結局色々あって娘が生まれてからは
DINKSとか何それ?レベルで吹っ飛んで、
今や娘ちゃんを一日中見てても飽きないと
断言するほどの娘大好きパパになってしまい
ました。
多分若い頃の私を知ってる人ほど今の変節ぶりに
驚くと思います。

要は確固たる自分というものに振り回される
必要は無いという事です。

スピリチュアル云々が好きな人は、取っ掛かりは
何か不安だったり、心配事があるからというのが
多いと思うんですが、
不安な自分→不安を解消する為にスピリチュアル
という道具を持ったやっぱり不安な自分、に
なっているだけというパターンが多いように
思われるので、そうなってしまうぐらいなら
スピリチュアルとか胡散臭いのには関わらない方
が良いです。

そんなものより以前も書きましたが男性なら女装
、女性なら男装して生活してみた方が良いです。
これは瞑想とかより一番簡単かつお手軽な
方法です。

如何に自分というものが身に着ける服装一つで
変わってしまう、あやふやな物かという事が
実感できると思います。そして自分とは意識の
中にしか存在しない、ではその意識とは一体
"誰の"意識なのか?という事ですね。

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