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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「私が〇〇を好きだったり〇〇は嫌いだったり
するのは全て決まっているという事か?」
的な
メールを頂きました、ありがとうございます。

全て決まっているというか、要はゲームで言う
所のフラグみたいなもんですね。

例えば私はこの前、顔も性格も悪いが読書家の
嫁さんが本を読む時に使っている眼鏡の上に
誤って座ってしまい、ケツ圧で眼鏡を粉砕して
嫁さんに大変怒られました。

しかしこれはまず嫁さんが眼鏡を購入するという
時点でフラグになっており、更に言えば嫁さんが
存在しなければ眼鏡を購入するというフラグ自体
が立ちません。

つまり何を言いたいかというと、我々はまさに
ゲーム上のフラグを回収する為だけのデータ
ようなもので、確固たる存在だというのは錯覚と
いう事です。

最初から我々は何処にも存在しないし、
産まれてきたわけでも死ぬ訳でもありません。
最初からゲームを構成するフラグの一部であり、
更にそのゲームそのものを意識する意識(?)
すらもフラグの一部であります。

なので言葉では示す事の出来ない存在が
全てなのであります。






まあこんなややこしい事の前に、私としては娘に
(・∀・)パパ、怒られちゃったねー
と慰めてもらったのでそれで十分です。
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「自己が消えるとか世界と一つとかいうのには
どうやったら良いの」というメールを度々
頂きますが、かなり強引に方法論に持っていく
ことは出来ます。

まず我々が大きく勘違いしているのは運動
いう知覚なんですよね。

例えば株価の終値に印を付けていくと、いわゆる
チャートになって株価が上下動しているように
感じるじゃないですか。
でも実際に株価が飛んだり跳ねたり運動を
しているわけでは無いですよね、月曜日の株価と
火曜日の株価はその時だけの数字に過ぎません。

しかし我々はそこにある種の法則というか、
株価の上下動という"運動"を見てしまいます。
というか見ようとしてしまいます。

これが問題なわけで、運動をしていないものに
対してそれを見ている方は運動を知覚して
しまっているのは明らかな知覚不全であります。

そして運動をしていないものに対して
法則性を見出そうとするのもおかしな話と
なります。

つまり運動をしているという知覚が錯覚であると
認識すると初めて"それそのもの"になる事が
出来ます。今まで運動をしているという
錯覚によって、知覚されるもの(物体)と
知覚するもの(私)という二つに別れた状態から
一つへ統合されるわけです。

こうして統合されると、やや強引ですが
もはや始まりという運動も無ければ終わりという
運動も無い
という事になり、結果的に自分は
生まれてもいないし死んでもいない、という事に
なります。
前回の記事の続きみたいな感じですが、
完全に自己が居ないというのはどういった事かと
補足しますと、例えば呼吸してる時なんか
わかりやすいと思うんですが、思いきり吸うには
まず思いきり吐く事です。

思いきり吐けば、勝手に息を吸い込む事をやって
くれるので、そこに息を吸おうという自己は存在
しません。これが何処をどう意識してどういう
タイミングで、とかやってると逆に呼吸が難しく
なってしまいます。

そしてこの息を吸ったり吐いたり感じる動作に
呼吸と名付けて、そこから「では呼吸をしている
ものは私の肉体である」とか勘違いするわけで
す。

つまり自己という勘違いの最たるものである肉体
から如何に離れる事が出来るかが要点です、
逆説的ですが肉体から離れると結果的に肉体は
理想的に動いてくれるのであります。

思いきり吐いて、結果として思いきり吸い込む事
でどれぐらい酸素を取り込むかとかは当然
わかりません。まさに神のみぞ知るという奴です

しかしこれは神のみぞ知るから運任せという
意味では無く、自己や肉体という概念から
離れるほど神を体現するという事であります。
「離人症になった事がありますが、自己は
確かに消えましたが全てが無意味に感じ、
大変に辛いものでした。スピリチュアルで
言われる自己が無いとか何だとかと何処が違う
のか」
というメールを頂きました。
ありがとうございます。

離人症てよく知らないんですが調べてみると
パニック障害とかも絡む精神疾患の一つみたい
ですね、これはもう普通に病気であって
スピリチュアルとは特に関係無いですね。

自己が居ないと感じると、本当に自己が消える、
は似て非なるものであります。

例えば口の中に何か入ると、その味によって
何かが口の中にある、と判断するわけで
何も食ってない場合は当然何の味もしません。

自己が居ない、と認識するのはこの状態で
何も味がしない、だから口の中に何も無い、と
感じているわけです。まさに味気無い状態で
あります。これでは確かに全てに意味が無い
ように感じられて苦しいかもしれません。

これに対して本当に自己が消える、というのは
口の中云々というのは、何かしら味を感じないと
出て来ないわけで、つまり口も味もお互いが
お互いを補完する関係性の中でしか存在出来ない
という事を知る事です。

なのであらゆる物は最初から存在せず、関係性の
中において存在するかのように振る舞うだけ
あります。
口の中がどうのこうの以前に、口の中自体が
最初から存在しなかったという事です。
だいぶ昔の話ですが「人は他人のイメージの中で
しか生きられない」みたいな事を故・野村克也氏
が言ってた記憶がありますが、これはその通り
だと思います。

分離を前提としている自我において、他人を
イメージの中で分けるのは当然と言えば当然で
あります。

例えば以前私が「選挙は自民党に入れました!」
と書いたら、ある人からは「私も自民党に入れま
した、知らんさんと同じで何となく良かった
です!」というメールを頂くと同時に「自民党に
入れるとは何事か!ふざけてんのかテメー!」
いうメールも頂きました。

つまり私も含めて人は誰かのストーリーの中では
ヒーローであり、誰かのストーリーでは悪役
なんですよ。これは良い悪いではなく、必ず
誰もが誰かの中ではヒーローと悪人の役割を
同時に担っています。

肝心なのはあくまでもヒーロー、あるいは悪人と
いう役を当てはめているという事です。
つまり本当のヒーローも本当の悪人も居らず、
その役をあてられた人が居るだけです。

これは他人に対してだけではなく自己に対しても
そうで、例えば誰かに嫉妬している場合、
自己より優れている人という役割を誰かに与え、
自分には劣っている人という役割を与えています
。そうしないとストーリーが始まらないからです

しかしここで注目すべきは優れている人と
劣っている人という役割を与えているのは
誰かという事です。あたかも脚本家のように
様々な人に役割を与え、その中でストーリーを
展開しているだけではないかという事です。

つまり優れている人も劣っている人も、そして
自己というものも、文字通り最初から存在して
いないんですよ。
存在しているように見ているだけだったので
あります。

こうなると今までのストーリーの中での
悩みやその他は、全部消滅するという事に
なります。
何故なら悩んでいる私、そして悩みの原因に
なっている何か、あるいは誰かは、その役割を
わざわざくっ付けていただけだからです。

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