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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「スピリチュアルの知識が多くの人に広まると現在の支配者層・権力者にとって
不都合なので、国家はスピリチュアルを警戒しているのではないか」
という
陰謀論全開のメールを頂きました、ありがとうございます。

これ、結構似たようなことを言う人って意外と多いですよね。
数ヶ月前にも「世界中がスピリチュアルに目覚めれば真の世界平和が来るので、
是非奥様と御一緒に私たちの団体に参加してください」
というメールを頂いた事もあります。

残念ながらウチの顔も性格も悪い奥様は、女性にしては珍しくスピ系とか嫌いな人なんで、
嫁さんに「一緒にスピリチュアル団体に入って世界平和を目指そう」とか言ったら
世界平和の前に私の個人的な平和が脅かされるんですけど。

まあ権力者ガーとか世界平和ガーとかは置いといて、
スピ系の知識だ何だって何処にあるのかって話ですよ。

「知識を見せてみろ」って言われても、絶対に見せられないんですよ。
個人の心の中にしか無いですから。

偉い坊さんが弟子に「おまえの心を見せてみよ」とか言って、
弟子が「師匠、どんなに探してもお見せ出来ません!」て答えると
「では、おまえの悩みなど無いのだ」みたいな事を言ったって話を聞いた事あるんですけど、
結局、ストーリーの中で生きている(と感じている演技)だけなんですよ。
つまり、夢を見ている事に気付いていないんですね。

今回の記事を見て、「そうか、全ては夢だったのか」という知識も、
その知識を元に色々なストーリーが展開しますよね。

つまり、個人の内面の空間(?)にしか存在しないものを実在だと感じるから、
そこから映画の登場人物と自己の同一化が始まるわけですね。

なので逆説的に言えば映画の内容は常に正しい、と言えます。
「国家がスピ系を弾圧しようとしている!」も「スピ系で世界平和実現!」も
その映画の登場人物と同一化している状態なら、正しいのであります。

当ブログは「世界を影で操るすき家の陰謀は存在する」と主張して参りましたが、
それも正しいのです。

しかし映画を観ることに疲れたなら、同一化をやめる事です。
同一化のきっかけになる思考や感情は、勝手に流れている川と同じです。
激流の時に飛び込んでみれば、苦難の連続に感じるでしょうし、
穏やかな時に入ってみれば何か明るい気分だわ、となるでしょう。

苦難の連続と感じようが、明るい気分になろうが、その事自体はどうでも良い事です。
自己とは波ではなく、海である事を知りましょう。
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突然ですがクイズの時間です。
下の図で?に来る図形は何でしょうか。

〇 △ 〇 △ ?



多分、殆どの人が瞬間的に〇じゃないかと思ったはずです。

で、その理由としては「パッと見て法則性があるから」とか「似たようなクイズは
よくあるから」とか「〇と△しか無いから」とか色々とあると思いますが、
「ある法則に基づいて並んでいます」とかは書いていないのに、答えは〇ではなかろうかと
思ってしまうという事は、並んでいる図形に一定の法則を勝手に見出していると
いう事であります。

つまり「クイズです」という言葉と、並んでいる図形という刺激に対しての
反応に過ぎないという事です。

ですから「何故、答えが〇と思ったのですか」という質問に対して、
「法則性が見て取れるから」というのは、
刺激に対しての反応を「こんな感じ」と言っているだけで、
本質的なものを一切示していないという事ですね。

十万石まんじゅうを食って「どんな饅頭でしたか?」に対し「うまい、うますぎる!」とか
言った所で、それは十万石まんじゅうを示してはいないのと同じです。
十万石まんじゅうを食ったという刺激に対しての反応(うまい)を説明しているだけです。
(おまえ埼玉県民だろ!というのはバレる)

しかし、冒頭の〇と△の並びを見た瞬間に、説明は出来ないが”何か”は感じたはずです(多分)
その何かに対しての反応は「このようなものでした」と説明は出来ます、
しかし”何か”そのものは決して説明出来ない。これが思考が止まった瞬間に近いです。

その後の「こんな反応でしたという説明」は思考で行っているわけですが、
それは全部後付けであって、あってもなくてもどうでも良いものですよね。

語弊がある言い方ですが、本来の「答え」は最初から知っているんですよ。
しかし「刺激に対しての反応の説明」、つまり思考が働いている時の方が通常だと
思っている
ので、なかなか本来の”何か”に辿り着けないようになっているのですね。

前述の「”何か”そのものは決して説明出来ない。これが思考が止まった瞬間に近いです。」
思考による後付けですから本質的なものではありません。

「だったら堂々巡りやんけ!」と思うかもしれませんが、これもその通りで
思考を用いようとすると、絶対に堂々巡りになるようになっているんですよ。

カッコつけて言うなら、これは自分のまつげみたいなもので
目の前にあるのに見ようとして目を見開くと、見えないんですね。
「頑張って瞑想等を行って思考を止める事を試みているけど
上手く行かない。思考を止めるにはどうすれば良いのか」
的なメールを頂きました。

人によってはスパッと行く場合もあるようですけど、
基本的に思考って止まんないものですよ。「止めよう」というのも思考だからですね。
「シロクマを思い浮かべないで下さい」と言われると逆にシロクマが頭に浮かんでしまう、
いわゆるシロクマ効果みたいなものですね。

なので、雨が降ってるのを無理矢理止めようとか思わないのと同じで、
思考が湧いてるのを止めようとか思わない方が良いですね。
雨音を聞いているような感じで、その場に留まった方が結果的に「止まる」でしょう。

そもそも頑張るって殆ど意味無いと思います。
語弊がある言い方ですけど、努力や頑張りってある種の宗教・信仰と同じで、
「これだけ頑張ったから何か良い事あるだろ」的な考えに陥りやすいですよね。
というか、まず間違いなく陥ると思います。

努力や頑張りが報われるには、それが「報われる為の私」が必要です。
ですから頑張って瞑想するというのは、少しずれているのではないかと
感じます。宇宙と一体の境地とかを体感するのに、「報われる私」が居ては
絶対に一体にはなれませんよね。

本当は最初から一体なのに、わざわざ一体では無い状態を創っているとも言えます。
それが「頑張る」事なのであります。

なのでスピリチュアルに関しては、頑張らないのがコツと言えばコツですね。









話が逸れますが、頑張るで思い出したんですけど
最近、何かのアンケートで「専業主婦の仕事は0円」と回答した男性が多いとか何だとかで
話題になったそうですが、これも「これだけ労働を頑張ったから、これぐらいのお金を
貰うものだ」という考えが元になってますよね。

でも世の中には殆ど労働らしい労働をしなくても、毎月家賃収入とか、株の配当で
何百万、何千万とかの収入がある人も居るわけで、労働自体に価値って無いと思うんですよ。

ですからこれ、設問が悪いと思います。
専業主婦の仕事に値段を付けるんじゃなくて、専業主婦の労働に対して
どれぐらい感謝出来るかって意味で、いくら出せますかってした方が
良かったんじゃないでしょうか。

お金ってたくさん言葉を並べるより、はるかにダイレクトに相手に感謝を伝える事の出来る
便利な道具ですし、それ以外にお金の使い道なんて無いと思いますね。

ですから私は「お金は汚いものだ」とかの考えには個人的には賛同しかねます。
四の五の言わずに相手に感謝を伝える事が出来る道具なんて便利だと思うんですけどねえ。

まあ、男性が嫁さんに感謝する時は時給換算でいくらだとか考えないで、
「愛してるよ」の一言で良いんですよ、なんつって。
「無職ですがどうすれば良いか」みたいなメールを頂く時がありますが、
基本的にどんな問題(に感じること)も、その中にある良い面みたいのを
感じた方が良いと思います。

仮に無職で何もやってなくても「働いていない分、自由な時間は馬に喰わせるほどある」とか
感じれば良いわけですね。

と言ってもこういうプラス思考みたいのは序の口・基本みたいなもので、
感じている状況に対し、肯定的にも否定的にも自由に、即座に変えられるっつーのは
見ている世界が夢のようなものだと知るためには効果的なのであります。

夢を見ていて「これは夢や!」と気付いたら、猛獣が襲って来ようが嫁さんが
怒り狂ってようが、その状況を見ながらスルー出来るじゃないですか。
つまり今まで否定的に感じたり見たりしていた状況を、肯定的に感じられるように
なるわけですね。

これは無職でも自由な時間は腐るほどある、と感じるのと実は全く同じなんですね。
やり方とか知らなくても、夢の中で夢と気付いたら誰もがそれを出来るのと同じなんですよ。

スピ系の知識みたいなのって、シンプルであるが故に様々な角度から
ああでもないこうでもないと言えてしまうので、逆にそれが混乱を招く要因ではないかと
思います。
当ブログの筆者も、ああでもないこうでもないと言い続けてようやく気が付きました。

更に一歩踏み込むと、夢の中で「これは夢や!」と気付くのは一体誰なのかって事ですね。

仮に夢の中で自分が豹に襲われ、思いきり首に噛み付かれている状況で
「これは夢や!勝手に喰わせとけば良いんや!」と気付いたとしても、
夢の中の自分が気付いたのではないですよね、
夢の中の自分は既に豹に首を噛み砕かれているわけですから。

という事は夢の中の自分とは別の何者かが「これは夢や!」の瞬間に存在していると
いう事です。しかしそれは、決して説明できないものであります。
夢と気付いた瞬間から、やり方を教わってもいないのに状況を肯定できるのと同じで、
何かは在るのですが、それは見る事も出来ないし説明も出来ないのであります。

というわけで実は起きている時も寝ている時も、常に夢の中に居るのと同じという
話でした。






どうでも良いですが今回のタイトルと内容ですぐにピンと来る方は、
かなりのオッサンオバハンなのは間違いないです。
連休中は新幹線で嫁さんの実家に行ったりしてたんですが、
「新幹線や飛行機が怖くてしょうがない、怖いものに対してどう取り組むのか」という
実にタイムリーなメールを頂きました。

少々話が飛びますが、私とか個人というものは関係性の中でしか
現れないものであります。例えば水が空から降ってきたら雨ですが、山の中で
流れたら滝になるように、存在とは関係性の中でしか出現しない現れては消える波の
ようなものです。

なので何かに怖がっている私、というのも「何か」との関係が無いと
出てこないのですね。

問題は関係性を持ったものを「私である」と認識する事であります。
この記事でも書きましたが、ネカマを演じている時は何も思わないのに、
実名だと何かムカつくのは、実名と関係性を持つ事で「私」が現れるという事ですね。

ですから関係性を排除していって、残るものがあるのかどうかを探る事であります。

瞑想するのも良いかもしれませんが、何を持って「瞑想している私」としているのか。
目をつぶって視界が真っ暗だから瞑想していると感じているのか、リラックスしているから
なのか、あるいは座禅を組んでいるからなのか、様々な関係性の中で「瞑想している私」が
出現しているのです。

何かをしている「私」は存在しない、というのは関係性の中でしか「私」を認識出来ない
からです。ネカマキャラでは恐怖を感じたりしないのは、最初から関係性が無いからです。
「私」じゃないからですね。

なので「怖いものにどう対応するのか」は、関係性を放棄すればおのずと恐怖は
無くなります。関係性が無いとは「私」が無ければ「彼」も無い境地であります。
「怯える私」も居なければ、「恐怖を与える彼」も居なくなり、一つになるのです。











偉そうに書いていますが、恐妻家の私が言ってもあんまり説得力無いですね。

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