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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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スピ系に限らず自己啓発本とかでも当てはまるかもしれないんですが、
ある特定のメソッドなり何なりにハマると、確実に不幸になります。

例えば「常に完璧を感じていれば幸せになる」というのがあるとします。
しかしながらその実践者がいきなり通り魔に刺されて大怪我をしたと
しましょう。

彼は「何故、刺されてしまったのか、愛が足りなかったのか」とか
”完璧なはずの自分”と”刺された自分”との間に何とか辻褄をつけようと
する
でしょう。

これが不幸になる要因であります。
因果関係などありません、完璧だろうが愛を振りまいていようが、
または凄まじい怒りにとらわれていようが刺される時は刺されるし、
刺されないときは刺されないのです。

それをああでもないこうでもないと悩むのは、まさに不幸になりたくて
なっている
状態です。

肝心なのは全てに責任を負わないということです、
雨が空から降ってくるのはそういうものだし、地震で地面が揺れるのも
そういうものです。

それと同じで歩いてたらいきなり刺されるのも、そういうものです。

メソッドのやり方が悪いとか私には才能が無いとか
過去の行いが悪いとか、前世が天狗だったからとか関係無いです。

そういった概念は全て自我の妄想です。なのでそういったものに
対して不安や怒りを感じる必要はありません、
不安や怒りを強く感じるなら、ずっと不安と怒りが続くでしょう。

そして自我からすればそれは”不幸”と認識しますから、また新たなメソッドや
知識を求めて振り出しに戻るのです、不安や怒りを感じながら。
結局は欲しいものを手に入れているとも言えるかもしれません。

そしてまた自我に”都合が悪い”事がある度に、整合性を取るために
辻褄合わせに苦しむのです。

これは「私は悟った」とか覚醒したとか、厨二臭い事を感じた場合も
同様です。

その時点で「悟った人」という人格の演技がスタートし、
自我が想定する「悟った」像から離れた事が起こると大変に動揺し、
やはり辻褄合わせに苦しむでしょう。

「私は悟った」「私は天才だ」に置き換えるとわかりやすいかも
しれません。

なので「知らんさんのような飄々とした人は、いきなり殴りかかられても
”これは幻だから”とニコニコしているのですか?」
というメールを
貰ったんですが、これは幻だからどうのこうのこそ、まさに辻褄合わせの
最たるものであります。

わかりづらいかもしれないですが、”幻”は事実ですが、”幻だから云々”は
自我の後付け
です。

私はボクシング経験者なんで、いきなり殴りかかられたら
反射的にかわしてカウンター取ってそのまま半殺しにするまで
殴ると思います。
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ここ最近、世界情勢がキナ臭くなってまいりました。
やはり政治と戦争は男のロマンであります。

ウクライナの親ロシア政権を「俺たちはEUに入って金持ちになるんや!」
反政府組織がクーデターを起こし、政権をブッ飛ばしたと思ったら、
氷の帝王プーチンが激おこで、今度はクーデター側をブッ飛ばす気満々であります。

果たしてスピリチュアルな愛の力で戦争を食い止める事が出来るのでしょうか!?

結論から言うと、無理です。
愛の力よりその辺のアイドルの歌でも戦場に流した方が良いと思います。

この前の記事でも書きましたけど、愛を持って云々しても、
ムカデに手を伸ばせばムカデは逃げるか、噛み付いてくるかであって
いきなりムカデが愛に目覚めて空を飛んだりはしないのであります。

つまり明確な差別化が存在するのであり、そもそも”愛を持って”なんて
エゴむき出しの上から目線も良い所であります。

基本的に私は愛がどうのこうのとあまり書かないようにしています、
愛という文章だけだと、どうしても自我レベルの愛情しか想像できないからです。

言ってみれば明確な差別化を認める事こそが、まさしく愛であります。
ですからムカデが出てきたらその場でブッ叩くか、
あるいは何とかして捕まえて外に放り出せば良いのです。

ムカデが人を咬む様に、人類は争うものなのであります。
それこそ国家、民族、宗教といったものに愛や信念を持ち、
自爆テロを行い、武器を持つ人々はいくらでも居るのであります。

確かにそういった人々の思想はエゴむき出しの愛や信念かも
しれませんが、人類とはそういうものなのであります。
そういった明確な差別化を認める事であります。
鳥は飛ぶもの、馬は走るもの、人は戦うものなのです。

そうする事で初めて実在という「外側」と思考や感情といった「内側」
越えて、全てを抱擁するようになるのです。

そうすると、今まで自分と思っていた線引きが消えていきます。
今まではこの線からこっちは自分、外側は別、と捉え
外側から自分側に向かってくるものを批評し、好ましいと思えば喜び、
嫌だと思えば悲しんできましたが、線引きが消えれば
全て自分となるのであります。

そもそも最初から自分など居なかったのです。
実は最初からずっと、自分の顔を見続けて来た事を知るでしょう。
テレビ見てないんで実はよくわかってないのですが、
ビットコインなる仮想通貨による詐欺(?)が話題になっていますね。

まあお金ってのは本来価値が無いし、仮想通貨だろうが子供銀行券だろうが
価値があるという大衆の思い込みさえあれば何でもビットコインです。

この思い込みと、さらに一般大衆が金融経済と実体経済という概念に疎いと
いう事実を利用して、一部の資本家は大儲けしたりするわけですが、
まあそれは置いときましょう。

基本的にお金っつーのは信頼を示すコミニュケーションツール(?)みたいな
モンです。ある特定のモノに対し価値があると感じ、さらに信頼があれば、
その信頼を示すツールとしてお金が発生するわけです。

逆に言えば信頼度MAXなら、お金を払わなくてもモノは勝手に
入ってきます。

仮に私がバシバシ予言とかしまくって、バシバシ的中させて
「ちょっと皆さん、誰か私にカルピス一年分ください!」
言えば、恐らく誰かしらからカルピスが送られてくるでしょう。

つまりお金という媒体が無くてもカルピス一年分は”購入”出来るんですね。
まあ購入というよりただ単に恵んでもらっただけな気もしますが。

何を言いたいかというとですね、100万円という数字があっても
100万円そのものに価値があるわけでは無いのですね。
しかし多くの人は100万円という”お金そのもの”に価値があると
思ってしまう、ですから悪い金融業者とかに利用されてしまうわけです。

話がスピ系と全く関係無くなりましたが、お金とかを実体の無い幻想であると
わかった(はずの)スピ系の人はセミナーとかでなるべく現金にこだわり、
スピリチュアルと縁遠そうな資本家は実体の無い金融経済を利用するってのが
面白いとこですよね。
「家にムカデが出たのですが、全ては自分であって愛だけなのだと思い、
愛を持ってムカデに手を伸ばしたら思い切り噛まれました。
どうすれば良かったのでしょうか」
というメールを頂きました。

正直、これを読んだ時はリアルにお茶吹き出しましたが、
このような場合は速やかに新聞紙でも丸めてブッ叩けば良いんです。

ただ、今回のメールで「世界は自分である事がわかったが、
結局元に戻ってしまう」
という人が多い理由みたいなのが何となく
わかったような気がします。

世界は自分であるし、分離は無い、のは確かにそうなのですが
「分離」と「差別化」は明確に違います。

どうも「分離」と「差別化」を混同している方が多いんじゃないでしょうか。

どう見ても人間とムカデは違う生き物です、愛を持って接した所で
ムカデとファミコンで遊ぶ事は出来ませんし、ムカデと会話する事も出来ません。

これは生物同士だけではなく、例えば人間の体の機能にしても
足の裏で味を感じたりしないし、腕にイヤホンつけて音楽を聴いたりは出来ません。

つまりあらゆるモノ、概念等は明確に「差別化」されているのです。
「差別化」されているモノに気付けず苦しむのが「分離」であります。

普段の感情や思考も、結局は昔からの習慣や住んでいる環境で
ほぼ決定されます。なので感情や思考は「私」ではない「私」を
支配するものではない、と明確な「差別化」を知る事です。

あらゆるものは差別化される事で初めて成り立つのであります。
そのあらゆるものを成り立たせている見えないし、触れる事も出来ない
構成要素こそが真実の私です。
差別化があるからこそ、全ては「私」なのです。

で、ちょっと話が脱線しますが、よくスピリチュアルの書籍とかで
「生まれたばかりの赤ちゃんのような純粋さ」を賞賛している例が
たまにありますけど、私はこれはおかしいんじゃないかと思います。

赤ちゃんてそれこそムカデでも何でもすぐに触れて口に持っていくじゃないですか。
で、噛まれてワーワー泣いたりしてますが、何で噛まれたとか
何で痛いとかもわからず、つまり差別化を受け入れずに苦しんでいる姿と
思うのですよ。

ですから私は赤ん坊ってのは究極の分離状態にあると思うのですが、
まあこの辺は何か哲学的になってしまうのでどうでも良いですし、
何を言いたいかと言うと私は子供は嫌いですって事です。




この前も親戚に子供が生まれたんですが、空気を読めない私は
「子供って全然可愛くないな」と皆の前で呟いてしまい、
親戚中からフルボッコされて少し凹んだのでした。
スピリチュアルの書籍なんかによくある「意識を鑑賞する」事は
とても有益であります。

しかし、意識を鑑賞するのは、当然ながら意識を眺めている何者かがいるわけで、
結局は分離を前提にしているのですが、エゴから距離を置いて意識を鑑賞できると
いうのは、それはそれで優れたスキルであります。

が、意識を眺めていると、意識の鑑賞者がふとしたはずみで意識自身に
感動してしまう事があるのです。
職場や学校の大して美人でもない女性をボケッと眺めていたら、
ちょっとした表情や仕草に妙に魅かれる事があるのと同じです(?)

あらゆるものは意識であり、それらは己自身でもある。というのは
それはそれで良いのですが、「意識が意識に感動して」しまうと、
猛烈な高揚と感動と共に全てとの一体感を感じるものです。

しかし元々一体なのですから”一体感を感じる”のはおかしいのですが、
至福感がパねえので、そんな事もどっかへスッ飛んで
「世界はエゴによって病んでおります」とか突然救世主チックな事を
言い出すケースも多いのであります。

世界との一体感を感じたのに世界は病んでおりますってのは
おまえが病んでるんじゃないか、と言いたくなりますが
意識が意識に感動する至福感はあまりに素晴らしいので、
どうしてもそれ(至福感)を世界中に広めれば世界は平和になると
感じてしまうのです。

しかし世界には戦争もあるし地震もあるし原発もあるし、
日本にも相変わらず共産党はあるし民主党もあるのです。

問題はそれらが外側にあると感じる事です。
意識が意識に感動してしまうと、どうしても至福が外側にあると
感じてしまいます。まあ至福を感じた「私」が居たのだから
そう思うのは当然なんですが。

しかし全ては外側から提供されるのではなく、内側に在るのです。
全てに対しての気付きそのものに落ち着く事です。

そうすれば昨日も書きましたが、描写が出来ない何か、
例えば眼球は眼球を観れませんが、しかし観ているのは眼球であると
いう事と同じ”事実”を知るでしょう。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

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