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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「セドナメソッド等の解放系メソッドをやり始めてから胸が苦しくなりました。
これが解放できていないモノだと思い、解放を続けていますが、痛みが取れません。
要因は色々考えられますが、どうすれば良いのか」
みたいな内容のメールを頂きました。

私はセドナメソッドとか詳しくないので、これは医者に行ってみましょうの一言で
終わりそうですが、病気では無いと思うとも書かれているので、あくまでスピリチュアルな
感じで言わせて頂くと、痛み=解放されていない と取るのはどうなんでしょうか。

そもそも痛みから解放されないと困る何者かが居るから「解放しなくては」とか
「これは悪いものだ」と感じるわけで、それならば痛みをどうこうするより
痛くて困る何者かに居なくなって頂いた方が早いのであります。

そのためには痛かろうが何だろうが感じる事です。
そして痛みを感じるためには「痛い」と知覚する者がいなくてはなりません。
その知覚する者を探せば良いのです。

しかし、いくら探しても居ないと思います。
痛みとは、流れてくる波を捕まえて、それに痛いとか苦しいとか名前を付けていた
だけなのです。痛みは外部から知覚する者に襲いかかるものではなく、
それ自身も己の一部
です。

彫刻家が木材の塊から余計な部分を削り落として、これは木彫りの馬ですとか
やっているのと同じで、己自身という塊から、これは痛みですと取り出して
痛い、痛いと喚いているのです。

木彫りの馬はいきなり湧いて出てきたのではなく、最初から木材の中に
居るのです。つまり木材と木彫りの馬は別物では無く、木材は馬であり
馬は木材であるという事と似ています。

木材と馬のように己と痛みが分離しなくなった時に、痛みは無くなるのであります。
「痛がらせる」には痛くなる対象が必要だからです。

頂いたメールには、痛みの原因は私の過去にあるのではみたいな事も書かれていましたが、
過去生とか因果応報とか輪廻転生とかカルマ(?)とか全然関係無いと思います。

そもそも己が居なくなる、というか分離が無くなれば過去生とか関係無くなりますね、
過去生って誰の過去やねんて話です。





過去生で思い出しましたが、10年以上前に埼玉の草加市近辺と記憶していますが、
そこにあった占いだか何だかの怪しい店に友達と冷やかし半分で行ったら
私の過去生は天狗と言われた事があります。

天狗って(爆)
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「私」さんのブログ「宇とか宙とかうるせえな!」をリンクしました。

「知らんさんばりのおふざけを炸裂させたい」とメールで仰ってましたが、
スピリチュアルとは大変に真面目で高尚な選ばれし者が進む魂の道なので
おふざけは厳禁です、多分。
昨日の記事は少々わかりづらかったので、少し見方を変えてみますが
あらゆる知識や認識は全て「考える能力」ともいうべき領域で
処理されます。

で、自我は基本的にこの「考える能力」を自らであると感じ、
同時に「真の私」より格上に見ています。

あるんだか無いんだかわからん真実の私がどうこうより、
それを考えて納得させる「考えるオレ」の方が正しいのである、という
感じです。

考えるということは、「考えられる対象」があるわけで、
考える能力が高ければ高いほど、真の私とは必ず分離します。

しかし、「真の私は分離ではなく世界と一つでありうんたらかんたら」という
知識に対し、理解するには「考えねばならない」ので、ここにパラドックス的な
ものが出てくるわけであります。

これを打破するには普段「考えていない」領域のものを敢えて引っ張りだし、
考える能力にさらすのであります。

例えばメシを食ってる時や喋ってる時は、舌は非常に器用な動きを
するわけですが、こんなものは考えてやってるわけではないのです。
敢えて舌の動きをメシを食ってる時に「考えて」やってみても、
多分すぐにめんどくさくなって疲れるだけでしょう。

「考える能力」を破棄した方が舌は正確に動いてくれるのであります、
大袈裟に言えば舌がどうのこうのという概念すら無い、つまりお口の中は
世界そのもの
だからこそ、舌は完璧な動きを見せるのであります。
完璧な舌を願うのではなく、最初から完璧だったという事です。

「考える能力」を捨てる事が、自我を幻と見て、やがては自分と思っていた
ものは何処にもおらず、世界であったという真の私に導くのです。

我々はスピ系の知識なんか知らなくても常に世界なのであります。
鼻をほじりたくなればほじるし、ケツが痒いならかく。
そこに指を鼻に突っ込む際のスピードとか、ケツをどれぐらいの力で
かくかとか、「考える能力」はお呼びではありません。

「考える能力」を捨てれば、大袈裟に言えば全てが世界(自分)の現れであります。
車が横から出てくれば、よける。そこに自由意志はありません、車という
刺激が世界から現れ、それに反応し世界がよけるという刺激で答えただけです。

海においては波同士が重なる事も海の働きの現れであり、
さらに大きな波になる事も、海の働きの現れであります。
そこに「考える能力」は存在せず、全てが海であるのと同じ事です。

つまり全ては単なる世界に生じた刺激でしかないのです。
水が上から下へ流れるように、刺激に応じた反応がただあるだけです。
という事は普段「自分だ」と「考えている」事を止めれば
真の私がそこに最初から存在しているというわけです。

そしてそれは知識など無くても、前述したメシを食ってる時や
ケツをかいてる時に、当たり前のように在るのであります。
「スピリチュアル的な気付きとか目覚めとかは、そういった知識があるから
得られるのであって、思考を伴う知識が必要という事は、結局はエゴの
力(思考)が必要なのではないか?」
という大変に鋭い内容のメールを
頂きました。

大事な事なので繰り返しますが、正直言ってこの内容は鋭い、感服致しました。
私のようなアホがここまで鋭い考察に十分答えられるかわかりませんが、
これは頑張って答えねばならないでしょう。

スピリチュアル的な気付きとか目覚めを得るためには、
確かにそのような知識に触れねばなりません。
そして思考によって何らかの気付きだ何だを得るのも事実であります。

そして先人が書いた書籍やら残した言葉から、自らが得た気付きだの
目覚めだのを「確かなものであった」と答えあわせをするかのようにして、
「私はシフクを得た!」とか言ってるのであります。

しかしながら、思考を用いてああでもないこうでもないと
悩むのは自我(エゴ)であります。つまりどこまでいっても「自我が満足するか否か」
であり、結局は観念との戦いであります。スピリチュアルな知識とは観念であり、
観念は自我を満足させる餌に過ぎません。

スピリチュアルな知識とは突き詰めると「本来の私(我々)」に戻るための
きっかけであって、それ以上でもそれ以下でもありません。
絶対的に正しいわけではないし、ましてや人生の指針にするとかトンデモねー事です。

男の子が性に目覚めるきっかけがセーラームーンだったとしても、
女性の絶対的に正しい姿がセーラー服というわけでは無いのと同じです。
私はセーラー服好きですけど。

話を戻すと、「スピリチュアルな気付きや目覚めがある」ときっかけとして
認識するのは別に良いのです。問題は「それを得ていない」と悩み出す事であります。

これは自らの影は実体が無いものと「わかっている」のに何故かそれを
「わかっていない」と思うのと同じです。

ややこしいですが「私は何も気付きを得ていない」と言えるという事は、
その事(気付いていない事)に気付いている何者かがいるという事です。
ですから別に気付こうが何だろうがどうでもよいのですよ。
もっと言えば気付くために何かをするというのも、やりたいならやれば良いですが、
やりたくないならそれで良いでしょう。
最初から全てに”気付いている”わけですから。
ちょくちょく書いていますが、自由意志が存在しない事は別に恐怖でも何でもなく、
単なる錯覚による産物に過ぎません。

仮に部屋の中に何かを隠すとしたら、当たり前ですが部屋にある家具の中とか天井裏とかに
隠しますよね。

自由意志を用いて隠し場所を考えているようですが、結局は「部屋の中」という条件下に
おいての行動しか出てきません。自由意志による行動は一つも無いのです。

なので「何かを行っている私」「”行為者”としての私」は
居るように見えて(感じて?)実は何処にも居ないのであります。

ここでもう一歩突き詰めると、何かを隠している最中にも色々と考えていると思いますが、
それら思考も「部屋の中に何かを隠す」という条件下において出てくる思考なので、
「”行為者”としての私」が居ないのならば「”行為者”としての私が感じている思考」も
存在しません。


つまり何が言いたいのかと言うと、「思考の中に答えは無い」という事であります。

特定の条件下でしか出て来れない幻の”行為者”が居るはずだという錯覚が、
思考というものが”在る”と感じる最大の要因ですから、
”行為者”の消滅と共に思考も幻となります。

では、今浮かんできている思考は一体何で、誰の思考なのか?

そんな事は海を眺めながら、今発生している波は誰の波なのか?と
考えているのと同じです。つまり答えは無いのであります。

私の波だと思えば私の波だし、あなたの波と思えばあなたの波です。
それらは思考による産物であって真実ではありません。
真実は思考の範疇には無いという事ですね。








もう取り壊してしまいましたが、実家の庭に昔、子供部屋ならぬ子供小屋があったんですよ。

厨房の頃の私がエロ本を隠すと言えば、当然その小屋の中だったんですが、
これも自由意志によって隠していると思いきや「エロ本をすぐ読める場所に隠す」という
条件においては、子供小屋しか無かったのであります。
多分たまに掃除をしてくれてたお手伝いさんにはバレバレだったんでしょうねえ。

この前ちょっと実家に帰る用があり、オヤジに言われて何故か庭掃除をさせられる羽目に
なったんですが、必死にエロ本を隠していた少年時代を思い出してしまいました。

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