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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「日本の借金が1200兆円もあるそうで、このまま行くと真理に目覚めようが
何だろうが日本国民全ての生活が破綻してみんな飢え死にするんじゃないの?」

いう衝撃的なメールを頂きました。

”真理に目覚める”の定義がよくわかりませんが、取りあえずスピリチュアルっぽく
言うと、分離が無くなった状態で”在る”なら、借金も何も外側からの要因に左右される事は
無いので、借金が1000兆あろうが1000京あろうがそれも己自身なので
これといった事はありません。

前も書きましたがゴキブリは己自身をキモイとか汚いとかは思わないわけで、
外と内に分離する事で初めて観察する者とされる者が現れ、
その結果キモイとか怖いとか汚いとかが出てくるわけです。

借金にせよ何にせよ”外側の要因”と”それに対し影響を受ける私”が在り続ける以上、
仮に国の借金がチャラになった所で、「中国が尖閣諸島の侵略を狙っているそうで、
このまま行くと真理に目覚めようが何だろうが日本国民全てがブッ殺されて
みんなあの世に行くんじゃないの?」
とか新たな要因を探して同じ所を回り続ける事に
なるでしょう。

結論から言うと、外側の要因と起こってもいない未来について考えるだけ無駄です。

考えた所で解決策は出ませんし、考えなくても解決策は出ません。
出たように見えても新たなる要因を生み出すだけだからです。
ならば考える時間と労力が勿体無いので、どっちかと言えば考えない方が良いでしょう。

まあマジで日本が破綻したらモヒカンにしてバイクにでも乗って、ヒャッハーと
奇声を挙げながらその辺の集落でも襲ってれば、とりあえず食料には困らないでしょう。
私はそうするつもりです。
通りすがりの世紀末救世主にブッ殺されるリスクもありますけど。


余談ですけどいわゆる「国の借金」て「政府の借金」であって、
国債の殆どが内債とかいう日本国内で消化するモンだと
聞きました。

海外から金を借りてるなら返済しないとヤバイですが、
日本国内で消化出来るなら、返済期限が迫っても政府がバカバカお金を刷ってしまえば
万事OKな気もするのですが、この辺の話は疎いんで識者の解説を待ちたい所であります。

ちょっと話がズレますが、お金でも何でも自らが生み出すものなのですから
あんまり他人様からお金を騙し取ったりするのはよろしくないと思います。

どのようにして人からお金を巻き上げるか=お金が有限な価値あるものと勘違いして、
他人を蹴落としてでも少ないパイを奪わなければならない、という分離思考に
陥っているからです。

株式投資なんかも最近はデイトレとか流行っててお金の奪い合いみたいなイメージですけど、
ある特定の会社の株が上がるっつー事は、その会社の生み出したサービスなり
商品なり研究なりが世の中のためになるから業績が上がって結果的に株価も
吊り上がるわけで(そうだよね?)会社もハッピー、世の中もハッピー、
社蓄ども従業員の皆さんもハッピー、ついでに投資した人もおこぼれに預かって
ハッピーで、結果として皆でお金を生み出す商品なりサービスなりの手助けをしていく形に
なる事が理想ではなかろうかと、性格の良い私は勝手に思っているんですけど。





まあ私の祖父なんかは生前に「株なんてのは馬鹿から買って、もっと馬鹿な奴に
売りつけるモンだよ!」と酒飲みながら身もフタも無い事を豪語していたんですが。
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私がスピリチュアルな事を書いたり言ったりするのはブログだけで、
普段の日常ではスピリチュアルのスの字も言いません。

理系バリバリのくせに雑誌の占いコーナーを熱心に読んで、アニメや漫画は
馬鹿が観る者とアニメファンの前で平気で言う性悪のくせに
エヴァンゲリオンだけは好きというわけのわからない私の彼女も
スピリチュアルには全然興味を示しませんし、
周りの友達もスピリチュアル以前に人としていい加減なのばっかりなので
まずスピ系の話題自体が出てこないのであります。

が、一人だけ身内の死をきっかけに突然精神世界に目覚めてしまった知人が居ます。
その方とだけはたまにスピリチュアルな話をするのですが、
まあ良くも悪くも大変に熱心な方なのですよ。

その方が一ヶ月ぐらい前に「自我が消え、至福を感じた」とか言い出したので
とうとうこの人もおかしくなったかと思っていると、
今度は「この至福を世界平和に役立てたい」とか言い出して、
まさかこの勢いで幸福実現党あたりから参議院選挙に出馬するとか言わねーだろうな
とか思ってましたが、そっちの方は杞憂に終わりました。

しかし問題はここからで、「自分は至福を得たのに世界は苦しんでいる!」
悩み出して、何か最近元気が無いのですよ。

世界平和とかって言っても漫画みたいに正義と悪にわかれているなら簡単ですが、
実際は正義と正義が激突しているわけで、「世界平和の実現」って言っても
結局は個人のエゴが悪と断定した方と戦うしかないわけで、外側に求めている以上は
戦いは終わらない
のですよ。

至福とは、善と悪とか、光と闇の勢力が戦っているとかの厨二病的世界ではなく、
突き詰めれば単純に「好きか嫌いか」だけの話であります。

目の前に吉野屋とすき家があったらどちらが好きかというだけで、
松屋とすき家はどちらが光の勢力か?とか考えていたら明らかにおかしいですよね。

しかし前述した知人はそれをやってしまっているわけです。
「アメリカは悪の大国」とか言うとそれっぽいですが、「松屋は闇の帝王」とか
言っても説得力無いですよね。「羊たちの沈黙」だといかにもサイコサスペンスな
響きですが、「羊の沈黙」だと羊が黙ってるだけで殆どギャグです。

結局は至福だ、善だ悪だ、平和だ苦しみだ、というのも自我の基準に従わざるを
得ないのです。自我は己の消滅を防ぐために物事を何でも二極化しますから
二極化を超越する事であります。

そのためには、「AとBはどちらが善なのか」ではなく、単純に「どちらが好きか」
もっと単純に言えば「どちらを選ぶか」だけの話なのであります。
「スピリチュアルな本とか読んでも腑に落ちない」っつーメールを頂きましたが、
別に「腑に落とす」必要など無いのですよ。
そもそも腑に落ちるとか落ちないとか、そういったものは「状態の変化」
現すものであります。

ある格言なり教えなりを思考で吟味して、腑に落とした所で
思考自体があるように見えて無いものなのですから「腑に落ちない」から
「腑に落ちた」への状態の変化を求めてもしょうがないのであります。

思考が存在するようで存在しないとは、例えば夢の中でも色々思考していると
思いますが、夢から覚めればその思考も、そして思考が始まる元となった事象も
全て存在しなかった事となります。

果たしてそこに「状態の変化」はあったであろうか、って事であります。

夢の中でも、或いは起きている時でも、我々は思考したり行動したり
何かを理解したり、何かを悟ったりしています。
つまり「状態の変化」は常に起きていると感じています。

ですから何やらスピリチュアルっぽい立派な教え的なものを知ったとき、
それを「腑に落とす」という「状態の変化」さえ起これば自分は変われるのだ、
といった(存在するように感じる)思考に陥ってしまう
のであります。

しかし起きてしまえば、または眠ってしまえば、常に起こっていると感じる
「変化」は無かった事と同じです。

なので前述の文に戻るのですが、果たして「状態の変化」などあったのか、
それ以前に変化をするものなど、最初からあるのだろうか?という
根源的なものへと行き着くのであります。
昨日も書きましたが、波は海を操ることはできません。

海からすれば波は自らの一部なのですから、存在自体意識されていないでしょう。
波は海から独立していると思い込んでいるだけで、海からすれば存在しているという
意識すら無いものなのであります。

肉体の細胞はそれ自体が肉体の一部であって、細胞が一つ一つ自我を持っていたとしても、
肉体からすれば知った事ではないでしょう。

もちろん顕微鏡とかでこれがアンタの細胞ですよとか言われれば、
へーそうなんですかとか思うでしょうが、だから何って感じですよね。

そうすると、じゃあ私が死にそうになっても誰も助けは来ないのかとか、
明日借金取りが来るんですけど私は東京湾に沈められるしか無いんですかとか
色々不安になると思うのですが、結論から言うとそんな事はまさに
知らんモンは知らんですよ。

そういった不安とか恐怖は、今起こっていない事に対してああでもないこうでもないと
思っているだけで、起こっていない事に対して色々と妄想をしても
しょうがないのであります。

そもそも起こっていない事に対する恐怖なんてのは文字通り妄想なのですよ。
ゴキブリ嫌いな人がゴキブリ見た瞬間にドヒャーと叫んでいる時は、
ゴキブリを見る前にゴキブリが出たらどうしようとか何だとかの不安も恐怖も
吹っ飛んでいるでしょう。

ドヒャーの後に恐怖が襲ってくるかもしれませんが、
それも「もしかしたら家中に卵産んでるかもしれない」とか「顔面目掛けて飛んできたら
どうしよう」とか、ドヒャーの瞬間だけ今に在って、すぐに未来への妄想へ
飛んでいってしまうのですよ。

ですから未来への恐怖であれこれ無駄なお喋りを頭の中で繰り返している方は、
本当にその恐怖の対象が現れた瞬間に、その恐怖を感じる事が出来るかどうか
考えてみてください。その瞬間と恐怖が共存出来ないのなら、恐怖は幻であります。







ちなみに私はゴキブリ全然平気な人で、素手で掴めって言われたら掴めちゃうぐらい
平気です。そんな私でも若かりし頃に住んでたマンションでトンデモなく馬鹿でかい
ヘラクレスオオカブトみたいなゴキブリを見たときはさすがにちょっと戦慄しました。

あの瞬間に私は今という瞬間に在る事を学んだのであります(?)
あれはもしかしたらゴキブリに姿を変え、私にその事を伝えに来た
高次元な存在だったのかもしれません。

私は高次元存在の降臨に感謝しつつ、新聞紙を丸めて派手にブッ潰しました。
ありがとう、高次元存在。
以前も書きましたが、我々が認識している世界は全て幻であります。
これは夢から覚めれば夢の中の人も、夢の中の世界も、そして夢の世界にいたはずの
自分も消えて無くなるのという事が分かりやすい例だと思います。

これは逆に言えば眠りにつく時は、起きている時に感じている私自身が消えてなくなると
いうことであります。やはり起きている時に感じている肉体や思考も幻なのであります。

しかし我々は確かに存在しているという実感を持って生活しているわけで、
その”実感”のバックグラウンドになっているものが、本来の”私自身”なのであります。

バックグラウンド自体は、眼球が眼球を見ることができないのと同じで
決して見ることはできません。なので神を見たとか高次元な存在に会ったとか
変なモンに目覚めたとかは全て”分離した自己”が見せた幻であって
本質的なものではありません。

結局はそういった幻も、バックグラウンドを操作したいという思いの
現れみたいなもんで、これは眼球に映っている建物とか風景が眼球を動かしたいと
思っているようなもので、無理な話であります。

眼球を動かすのは筋肉であって、さらに言えば脳の指令であって、
もっと言えば眼窩が無ければ眼球自体存在出来ないわけで、つまり眼球を眼球足らしめる
バックグラウンドがやはりあるわけです。

なのでいつもの海と波の例えで言えば、波は海をコントロールなど出来ないのだから、
自由意志も持たない、極端に言えば”風景”に過ぎない思考や自我は、
ただそこに在る事しか出来ないのであります。

風景はどこまで行っても風景です。
しかし同じ風景(特定の思考、感情)に固執して、この風景こそ私であると
言っているのですから、やっぱりその風景が好きって事でしょう。

全てのバックグラウンドである事は、眠りにつく時の私がどこに消えるのか、
そして夢から覚めたとき今まで夢の世界で存在していた私はどこに行ったのか、
それを探すことでわかるでしょう。

そしてバックグラウンドに委ねる=何もしない となるのであります。

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かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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