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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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前にギャンブルとかで賭けるなら、とりあえず失っても何とも思わない金額から
賭けると良いですよって記事を書きましたが、
1000円とか2000円ぐらい、人によっては100万ぐらいでも
賭けても何とも思わないのに、これが1000万とか1億になってくると
色々あーだこーだ思ったり、言い出すのは面白い現象です。

そしてこの時こそ初めてお金というものが出てくるのです。
そもそも1000円失っても何とも思わないって事は
「1000円」自体が存在しないのと一緒ですよね。
というか文字通り存在しないのですよ、しかしこれが10倍の
「1万円」だと突然失うことに恐怖を感じたり不安になったりするのは、
己自身でお金という概念を作って、そこに1万円という属性を見ているわけです。

つまりお金の心配とはお金を見ているから心配するわけで、
マネーゲームから脱出するなら、お金が文字通り存在もしなければ価値すら無いという事に
気付けば良いのであります。お金とは極端な言い方をすれば空想の産物、とまでは
言いませんが、それに近いものがあります。

お金を見ている以上は例え貯金が10億あろうが、年収が1億あろうが、
お金の不安からは逃れられないでしょう。
幽霊が自分の部屋に居ると思い込んだら、家族に坊主が居ようがエクソシストが居ようが
安心出来ないのと同じです。

お金に限らずあらゆるものに対し「何とも思わない」「妙に気になる」の境が
あるはずなのです。そして「気になる」というのは文字通り「気」を「付けて」
いるから、それがあるように見えるのであります。

結局、あらゆるものは空想の産物であり、私という意識や感覚すら空想の産物(みたいなもの)
なのです。








まあ1000円ぐらいなら捨てても何とも思わないけど、1万円だと許せねえってのは
キスまでは浮気じゃないけどセックスしたらぶっ殺すみたいなものですよ(?)

私は若い頃浮気した時に、キスまでどころかずっと先までイってしまいましたが、
私の基準だとまだまだ浮気ではなかったのです(多分)
しかし、当時付き合ってた女性には残念ながら寛大な心が欠けており、
浮気がバレてこっぴどくボコられました。

世の女性達は1000円程度をスったぐらいでギャーギャー言い過ぎです、
なんつって。
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基本的に、気にしていない事ほどあっという間に実現するものです。

我々は特に新陳代謝を気にせずに毎日を過ごしておりますし、
仮にいちいちそんな事を気にしていたら、かえって気が病むってモンです。

意識とは、色々と気にしている時はどんどん縮小し、気にしていない時は
逆にどんどん拡大していくものです。

個人的な問題を気にし始めると、どんどん世界が「私は~」「私が~」という
主語をメインに考えるようになり、逆に気にしないと、どんどん世界は拡大し、
熟睡時と同じ状態に近づいていきます。

つまり何一つ気にするものも無い、対象が存在しない全てが一つとなった状態です。

で、この状態は殆ど想いが即実現のような世界なので、
拡大していけばいくほどあらゆるものに意味が無くなりますが、同時にあらゆるものを
生み出せる状態でもあります。

しかしあらゆるものに意味が無いので、実現しても特に何とも無いのであります。
喜ぶ自我が居ない、という奴ですね。

前も書きましたが100円馬券買って外れても悲しむ自我は居ない、って状態の
逆バージョンですね。自我が喜びとか悲しみを勝手に演出するので、
正確に言うと喜ぶ自我も悲しむ自我も居ないのであります。

最近では参院選の際に「国会に送り込まれた中核派の刺客ブラック企業の帝王
迎え撃つなんて胸が熱くなるなあ、見てみたいなあ。かなりどうでも良いけど」とか
思いながら寝たら、翌朝ブラック企業がまさかのギリギリ当選を果たしていた事が
実現しました。ワタミグループの皆さんは私に感謝すべきです。

というのは冗談ですが、あらゆるものに意味が無い、という事はあらゆるものに対しての
希望も目的も無い、という事です。そもそもあらゆる事象に意味と目的を持たせようと
するのがおかしい
のであります。そんな事をするから次々と分離を生み出すのです。

意味や目的、希望を持たせるから今回の選挙結果に対し「ブラック企業の社長が
当選するのはあり得ない!」とか「日本が戦争への準備をしている!」とか
「反日売国政党がまだ残っている!」とか騒ぎ出すのであります。
そういったものを捨てれば、あらゆる事象は全て楽しむものとなります。

映画を観る目的は何かと言うと、まず楽しむ事です。
映画の登場人物が死んだりする事にマジギレしてたら危ない人になってしまいます。

夢を見て起きた時は、夢の中で会話した人々は全て消滅、文字通り永遠の死ですが、
別にあなたはマジギレはしないでしょうし、夢の中ではあなたも、そして他の登場人物も
目的なり何なりを持って行動しているかのように見えていたでしょうが、
夢から覚めた時、それらに大きな意味は無いでしょう。

つまりあらゆる事象に目的、目標、希望を持つ事は、自我にとっては
これこそ「今」を生きているみたいに感じるかもしれませんが、
それらは偽りの「今」であります。

希望という言葉はポジティブな響きがありますが、
逆に言えばそれは絶望への恐れを防ぐお守りみたいなモンで、
希望を持っていようが、それがダメなら気合だ根性だとやった所で
疲れるだけであります。

目的や目標を持たせて、それらがダメだったら希望という名のお札で
身を守っていてはいつまで経っても映画は楽しめません。
絶望を恐れて希望を捨てないなら、希望をまず捨ててしまえば絶望も消えます。

あらゆるものを捨てるからこそ、全てが水面に映る月のように
美しく輝く
のです。水面に映る月と水面は同じ水であり、
そして同時に同じ水でありながら違うものでもあります。

その時に初めて世界も自分も区別が無い事を知るのです。







まあ私は「政治と戦争は男のロマン」派なんで、日本が戦争しようが
核を持とうが別に何でも良いですが、中学の時に「沈黙の艦隊」
ハマッた者としては攻撃型原潜を持って欲しい所ですね。
明日は参議院選挙ですが、選挙好きを公言している私としては
当然今回の参議院選挙は見逃せません。

と思っていた所に「明日は参議院選挙ですね、ところで何でスピ系の人は
原発に反対している人が多いのか、ついでに山本太郎さんの魅力が
わかりません」
みたいな内容のメールを頂きました、これが引き寄せか。

まあ山本太郎さんはメロリンQ以外に語るものが無いのですが、
何でスピ系は原発とかに反対の人が多いかっつーと、原発に反対している人は
左翼っぽい人が多いですが、スピリチュアルと左翼思想って相性が良いんですよ。
と言うか日本の左翼思想は少し独特で、いわゆる「反体制」ではなく「反国家」
なっている所が特徴ですよね。

ざっくり言うと強いものが悪で、弱いものは正しい的な思想で、
めちゃんこ強い「国家」が正しいはずの俺達弱者をいじめるぜみたいな、
そんでもって国家は原発事故を起こしたのに謝らないぜ、復興も遅れてるぜ、
管直人は原発に詳しいぜ、いつまで弱者をいじめるんだぜ、プロ市民を舐めるなよ、
みたいになると、原発が悪である国家の力の象徴みたいに見えてきちゃうんじゃ
ないでしょうか。

もちろん科学的な見地から反対している人もいるでしょうし、
私自身も原発はともかくとして、高速増殖炉の「もんじゅ」
ちょっとハイリスクな事にチャレンジし過ぎじゃね?とか思ってますが、
まあプロ市民ぽい人たちは原発そのものより原発の裏に見える「国家」に
むかついてるんですよね。

原発事故は確かに痛ましい深刻な事故ではありましたが、それとは別に
単なる発電所に対しあそこまで騒げるのもある意味すげえと思います。
シムシティなんてやった日にはどうなるのでしょうか。

話がずれましたが、スピリチュアルに入る人は様々な理由から
「弱って」いる人が多いのも事実であります。
そしてスピ系の様々な言葉は「弱さ」を肯定しているかのように
感じられます。

ここで弱者は正しいっつー思想と非常にかみ合ってしまうのですよね、
表面上は。しかし「弱いのが正しい」と「弱い事を受け入れる」は似てるようで
微妙に違うのですよ、受け入れるっつーのは否定も肯定もしないって事です。

否定も肯定もしないって事は、「弱さ」自体が消えてしまうという事です。
これは前回の復縁云々の話とも繋がりますが、
「弱くない」と否定するという事は、弱さが必要です。
「弱くても良い」と肯定する事も、弱さが必要です。

なので「弱い事が正しい」だと、弱さがいつまでも必要なのですよ。
ですからそういう人がスピ系の本を色々読んで余計に病む事が多くても、
元気になる事はあまり無いのです。

で、これを踏まえてもう一度最近の記事の話をするとですね、
何故ギャンブルや投資でざわざわするほどのお金を賭けない方が良いかと
いうと、結局は「貧乏じゃない」「貧乏でも良い」「金持ちだ」という
貧乏が居てくれなければ成立しない思考や概念から離れられるからなのであります。

多くの現象はその現象の元となっているモノを後生大事に握り締めているからです、
それらを離せば良いだけです。






Cさん「では原発の無い、日本共産党が理想とする世界を実現する事も
可能なのですか!?」

可能です、原発の無い世界とは原発が存在してくれないと出て来れません。
原発の無い世界は、熟睡している時は確実に無いし、あるいは夢を観ている時も
存在しない可能性があります。

Cさん「それでは意味がありません」

ここがポイントなのですよ、つまり起きていると感じている時に、いかに多くの
執着を抱えているか
という事なのです。
起きていると感じている時にだけ、色々意味を持たせたいなら、その意味自体も
捨ててしまえば良いのです。

こうする事で初めて「起きている時と、寝ている時と、熟睡している時は全て同じ」
であり、否定や肯定という概念自体も無い世界=自分となるのであります。

Cさん「これで日本共産党が政権を取る時代が来ますね」

いや、それは無理です。




というわけで皆さん、明日は選挙に行きましょう!
前回の話と少し被りますが、自我というものはスピ系における、ある種の気付き的なモノも
巧妙に利用します。

例えば「世界は自分だった、自由意志も無かった、なんたらかんたら」というのも
あくまで自我を通して発せられた言葉なので、正確に言うと事実では無いし、
もっと言えば真っ赤なウソとも言えてしまうのですよ。

それにも関わらず、それが自我の”認められたいとか、安全でありたいという欲求”に変質し、
妙な事になってしまうケースが多いように感じます。

例えば「何が起きても受け流すだけだから、世界は私だから、幸せも不幸も無いから」とか
言いながらセックスしてても気持ちよくも面白くも無いですし、
「世界は自分だから、勝っても負けても幸せ」とか言いながら
サッカーや野球見てても楽しくないですよね。

興奮したり悲しんだり喜んだりっつーのは勝手に出てくるのだから
出てくるに任せておけば良いのであって、それをスピ系の変な知識やメソッドで
どうにかしようと言うのがおかしいのであります。

これでは「世界が自分だから」という言葉・概念が、流れてくるものに対しての
”免罪符”みたいな事になってしまい、自我を守っているだけになってしまいます。

そもそも「世界は自分だから何々があってもどうのこうの」という自体がおかしいのです。
何々があるって事は「何々(体験)」と「それを体験する私」が居なくてはならないのだから
何かが”ある”という認識事態が厳密に言えばおかしいのであります。

頭が混乱してくるかもしれませんが、要はスピ系の知識とかメソッドなんて、
最終的には全部放り出して忘れてしまう事が肝要なのです。
深く熟睡している時に「世界は自分だった」とか何だとか小難しい事は
出てこないはずです。熟睡している時に出てこないものは、全部捨てて良いモノなのです。

大体役に立ちゃしないし。
最も役に立つ事は、役に立たないという事を知る事なのだ、という事であります。

何度か書いていますが、あらゆるメソッドはスピ系で言う「神」だとか「本来の自分」からは
絶対に離れます。しかし、実はあらゆるものが役に立たないのだ、という事を
知るためには、やはり色々実践していく先にあるのかもしれません。

ややこしくなってきたのでこの辺でまとめると、全部捨てて良いモノばかりだったって事は、
逆に言えば得るモノなど無かった、という事であり、
ここで初めてふりだしに戻り、ふりだしこそゴールだった事を知るわけであります。
一年ちょい前に友達に子供が生まれて、昨日ようやくお祝いに行きました。
私は子供嫌いなんで、友達の子供見ても欠片も可愛いとか思いませんでしたけど。

まあそれはどうでも良いのですが、たまに「在るとか何だとかは無垢な赤ん坊と
同じような状態なのか?」という質問もたまに受けます。

個人的な見解だとちょっと違うと感じるんですよねえ、
様々な刺激に対してのリアクションが、赤ん坊は泣いて伝える事であり、
成長すると言葉で言ったり、あるいは我慢したりしますが、
どちらにせよ刺激(腹が減ったとか)を刺激として認識する時点で
赤ん坊も大人も大して変わりません。つまり「刺激と、刺激を受ける私」
確固たる概念として存在しているのですね。

なので「あなたは生まれる前から既に”それ”だったのだ」とかカッコつけた事を
言った所で、赤ん坊状態の時に既に世界との分離を果たしているので、
やはり”それ”に気付くための何らかの修行というか、刺激みたいのは
必要なのかもしれませんねえ。

あらゆるメソッドはどんどん本質から離れていくだけなのですが、
しかしメソッド的なものを通していかねばならない(かもしんない)という
矛盾を突き破る事が本来の修行みたいなモンなんでしょうか。
修行、修行って書いてると何かドラゴンボールみたいですけど。






余談ですが、子供を通じて世界を見てみると、やっぱり我々の本質みたいなのは
”与える”事にあるんだなあと感じます。

友人夫婦も「この前、この子がパパと言ってくれた!」とか喜んでましたが、
何でそんな嬉しいのかっつーと、自分の子供が言語という
”他人に与えられるもの”を獲得しつつあるからって事なんじゃないかと
思います。

これがパパとかママじゃなくて、いきなりガキがポルトガル語とか喋りだしたら
親は日本語を喋って欲しいと思うはずなんですよ、日本で生活する以上は
日本語が最も”人に投げ掛け(与えて)コミュニケーションを取る”為に重要だからです。

これは前も書きましたがお金と同じですよね、お金は人に与える事が出来るから
得た時に嬉しさを感じ、受け取る人が居て初めて実体のあるものとして
機能するのであって、言葉もそれを与える(話しかける)人、
そして受け取る人が居て初めて”ただの音”から実体として機能出来るわけです。

つまりお金も言葉も、実体としては存在出来ないのです。
お金や言葉に限らずあらゆるものをこのような視点で見てみると、
実体のあるものなんて実は殆ど存在しなかったりするんですよね、
ドラマのガリレオじゃないですけど、実に面白いっすね。

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