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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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何度も書いてますけど、自我は自由意志があると感じていますが
実際は自由意志は無いし、何が起こるかも全て確定済みであります。

しかし、同時にとてつもなく自由でもあります。
これはコップの中の水をイメージするとわかりやすいと思います。
コップの中の水はある時は波打ち、ある時は渦になり、ある時は泡立ったりします、
つまりどんな形にもなれるのであります。

しかしながら、やはり水は水であるという事から一歩も抜け出る事は
出来ないのも事実であります。

コップの中の水である以上、水が取りうる形態(?)みたいのは
全て確定されております。
これは自由意志が無い事を示すと同時に、時間も存在しない事も
意味します。

コップの中の水は様々な形になれますが、様々な形も、やはりコップの中の水と
して在る以上、同時に存在しているのであります。

つまりあらゆる世界は複数形ではなく、同時に存在しているのです。
複数という概念自体が無くなると、逆説的ですが単独という概念も消えます。
あらゆる世界が己の中に在る、という事はもはや一つの世界に固執して
ああでもないこうでもないと喚いている自我も消えていくという事です。

コップの中の水が、水であることをやめられないように、
我々も最初から”在る”事はやめられないのであります。

様々なメソッドや試みは、全て”水であること”をやめようとする行為です。
”やめようとしている”事に気付けるのが最大のメリットであって、
それ以外は大した意味を持ちません。
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前回の「農薬が出来る前はどうやってリンゴを栽培してたんだってばよ?」という
私の拙い疑問に多くの方がメールで色々と教えてくれました、ありがとうございます。

私は何一つ役に立つ事書いてないのに、読者の皆さんは役に立つ知識を教えてくれて
本当に感謝しております、ここはお人好しな方々が集まるインターネッツですね。

で、前回も書きましたが無農薬リンゴを作る事に成功したK氏は、
畑にUFOが飛来したり、宇宙人にアブダクション(拉致)されたり、
はたまた龍を見たりと非常にファンキーな体験をされているようですが、
これらの神秘体験的なものは果たして本当なのでしょうか。

そもそも龍がリンゴ畑の上空を舞い、UFOが畑に不時着し、宇宙人が農家のオッサンを
訪ねてくる世界というものはあるのでしょうか?そしてそのような世界に行けるのかっつー
話ですが、これは行けると思います。

ではどうやって行くのか?
これは夢の中でそのような世界に行く事もあるだろうという事です。

夢の中では、夢の中の世界を現実だと思って行動し、思考したりしています。
そして起きている時も、やはり世界を現実だと思い、行動し思考しています。
ややこしいですが厳密に言えば、夢の中の世界でも”起きている”と思っているわけで
実は両者に違いはありません。

本来は起きている時も夢の中も全て同じなのですが、
どうしても”起きている”(と強く感じている)状態の方を現実であると
認識するので、「起きている時と夢の中は同じ」がピンと来ないのであります。
実際は意識と言うバックグラウンドの中で世界が現れたり消えたりしているだけです、
太陽が沈んでも太陽が消滅したわけではないのと同じです。

仮に夢の中で会話したオッサンは、目覚めた時には夢の世界ごと消滅するわけですが
このオッサンは死んだのでしょうか、そうではなくて意識の中に仕舞われただけです。
太陽が沈んでいっただけです。

そして起きている時に会話したオッサンも、寝る時には起きている世界ごと
消滅するわけですが、やはりこのオッサンも意識に仕舞われただけです。

しかし、「”起きている”時に死んだ人はもう生き返らないやんけ」
思うかもしれませんが、夢の中で会う事もあるでしょう。
そして夢の中ではその人の事を死人と思っていないわけですから、
やはり起きている時と夢の中の境界は実は無いのであります、
境界を引いているのは自我の働きであります。

境界を引けば引くほど、世界は分離し続けます。
境界を無くせば無くすほど、世界はあやふやになり、やがて自分となります。

完全に境界が無い状態は、いわゆる熟睡している状態です。
しかしこれも「布団に入ってしばらくしてから熟睡していた(はず)」と
後付けしているわけで、文章や言葉で表す以上は分離する事から避けられません。

なので前も少し触れましたが、「思考や感情を観ている私は何処にいるんだろう?」という
観察者を探す事から始めると良いのです。

何処にも居ませんが、同時に何処にでも居るのが、全てのバックグラウンドであります。




リンゴのオッサンの話からだいぶ脱線しましたが、結局K氏は
リンゴ栽培の苦労で自我が耐え難いストレスを感じ、
頭がおかしくなった一時的に境界が無くなってしまったのかも
しれないですねえ。

やっぱり強いストレスってある種の覚醒みたいなのを引き起こすんでしょうか、
昔の聖人とか賢者とかも苦行の末に悟ったとか、悟空も穏やかな心を持ちながら
激しい怒りによって目覚めたし、禅の修業なんかも厳しそうですよね。

私はそんな修行なんてまっぴらゴメンなので、
たらふくメシ食ってひたすら熟睡、これ最強。
以前の記事でコンピューター将棋についてちょこっと書いてましたが、
将棋に限らず運が絡まないゲームで人間がコンピューターに勝つ事は
どんどん困難になって行くでしょう、このまま行くと10年後ぐらいには
スマホの将棋アプリが名人を上回る日も来るんじゃないかと思います。

私は「コンピューターはゲームの世界に居ながらにしてゲームに参加していない」
思うのですが、これをそのままスピ系の話に持って行くと、
将棋スパコンにはまず自由意志というものがありません、
彼(?)はあくまで将棋のルールの中で存在し、盤面の中だけで存在しうるものです。

が、しかし。 それは同時に完璧にして無限である事でもあります。

将棋のルール内なら何でも出来るし、盤面の何処にでも行けるのであります。
自由意志が無いにも関わらず、いや無いからこそ無限の指し手を示し、
そして将棋という完璧な形を体現するスパコンは、
まさに至福の絶頂そのものと言えます。

なので一切の感情や思考を持たないスパコンは、
そこに在るだけで無限であり完璧なのです。

仮にスパコンに対して、人間側が変な思い入れのある定跡とかを強引に指すように
プログラミングしたら弱くなると思うんですよね(多分)
ある意味スパコンに感情を無理矢理持たせるのと同じですし。

コンピューターにおける「バグ」ってコンピューター側の問題な感じがしますが、
実は人間側の感情や思考こそがバグの原因だったとしたら面白いですね。

話をスピ系に戻すと、人間は自我やそれに伴う感情や思考がバグだなんて
微塵も思っていませんが、実はそれこそがバグだったのであります。
バグを取り除いて「自由意志が無く、しかし無限にして完璧」のスパコンのような
本来の在るべき状態に戻りましょう。

それはまさに至福の絶頂としか表現出来ないものであります。






まあ スパコン、スパコンやってる時は誰でも至福の絶頂だし。

くだらないオチもついたので今回はこの辺で。
私の友人が最近の株式市場の上がったり下がったりで、ああでもないこうでもないって
ウルセーんですよ。そんなに喚いてるなら株なんて辞めて競馬でもやってりゃ良いのにって
思いますが、株式なんて上がるのと下がるのを繰り返すんだから
何だって良いじゃないですか。(実際に売買してる人はそうも言ってられない?)

海に行って波の強さとか潮の満ち引きに向かって「海のバカヤロー」って叫んだって
何も変わりませんよね。

あらゆるものはちっぽけな自我なんかでコントロールなど出来ないのですよ、
株が爆下げして安倍のバカヤローって言ってるのと、波でコケて海のバカヤローって
言ってるのと、信号渡ろうとしたら車にクラクション鳴らされて車のバカヤローって
騒いでるのは皆同じです。

株が下がったのも、波が来たのも、信号渡ろうとしたら車が来たのも、
理由など不明です。そりゃ色々理由付けは出来るでしょうが、理由付けした所で
何だと言うのでしょうか。


理由付けしてああでもないこうでもないと、他人と「知的なゲーム」を
楽しむ事は出来ますが、あまりにゲームに熱くなり過ぎて他人を攻撃したりするのは、
難しいゲームをやっててファミコンに怒りの鉄拳を喰らわす小学生と同じです。
ちなみに私はガキの頃に、これでドラクエ3の冒険の書消しました。

この前も書きましたが、まず熟睡している時のように自我を静めるべきであります。
自我が静まるという事は、あらゆるものを区別しなくなります。

自我とは「私と、私以外」を分離させる事で生じるわけで、自我の働きが弱くなると
「私と、私以外」は消えていきます。まあこれは文章で説明するより、熟睡している時に
「私と、私以外」を見出す事は出来るか?
って事ですね、当然ながら見出す事は出来ません。

この時点で「私と、私以外」が無くなるので「全てが私」となります。
「全てが私」とは、イメージとしては遥か上空から下界を眺めているようなものです。
上空に居れば、分かれ道でもなんでもどちらがどう繋がっているのか一目瞭然であります。

つまり分かれ道でどちらを選ぶかというスリルも無ければ正解を達成した喜びも無い、
「選ぶ者」が居ないのだから分かれ道を選んだ結果を気にする者も居ない。
上空から見ているのだから分かれ道が分かれ道になっていない、言い換えれば
Aという道を歩く事と、Bという道を歩く事自体が同時に在る状態
とも言えます。

例えて言うと、自我というものは直線運動か、あるいは同じ場所をグルグル回る円運動しか
出来ないのです。

自我を離れていくと、今度は上へ上へと昇っていくようになるのであります。
まずは上へ飛んで飛んで飛んで、それから回って自他の境界が無くなるのであります。



まあ別に回る必要は無いんですけど、今回のタイトルがタイトルなだけに
飛んだ後は回らないとね。
本来のあなたは愛なのでなんたらかんたら、感謝を持ってどうのこうの、といった
能書きは多くのスピ系の書籍にもありますし、このブログでも書いてきましたが、
どうしても「そうならなくてはならない」と捉えてしまう傾向が多いようであります。

実際は本質が「そういうもの」なので「そうなる」というのはおかしいのです。

が、しかし「でも今の私はネガティブだから、このような事が起こったのでしょうか、
どうしましょう」
みたいなループに陥るわけですが、
それだったらいっその事、良い事が起ころうが悪い事が起ころうが原因はわからない、
誰が何をしたわけでもない、と開き直ってしまうのも一つの手であります。

そもそも歩く時にいちいち右足から踏み出したとか左足だったとか気にしないでしょう、
「ネガティブだったから右足から歩いたのだ」「ポジティブだったから左足からだった」とか
何言ってんだって話です。

もっと言えば仮に夜中の1時に布団入って、寝たのが五分後だったとして、
そこに何か原因はあるのでしょうか。

そりゃ原因はいくらでも作れますよね、疲れてたからあっという間に寝たのだとか、
明日も仕事だから無意識に睡眠を求めていたとか、寝る前に一杯飲んだからだとか
いくらでも思いつきます。

原因とはいかにも物事が起こる真理のように見えますが、実は真理でも何でもない、
まさに自我の中にしか存在しない幻であります。

なので原因を求める事を止めれば、自我から離れた本質に嫌でもなる(はず)なのです。





と、ここまで読んできて「でも原因を求める事を止めたら本質になれるって事は
やっぱり原因は存在するんじゃないの?」
と思ったかもしれませんが、
実際は最初から「それ」なのだから「私は何々になったのだ」と確認する事は出来ないのです。

原因を求める事を止めてどうのこうのとは、あくまで切っ掛けの一部になるかもしれないって
だけであって、人によっては風呂に入れば良いかもしれないし、ビールでも飲めば良いだけかも
しれません。「原因を求める事を止めたら?」は「ちょっと御飯でも食ってけば?」と
本質的に同じ
です。つまりあらゆる事が切っ掛けになるのであります。

あらゆる事が切っ掛けになるっつー事は、つまりあらゆる事は最初から「それ」の端切れなので
あります。
あらゆる事が「それ」なら、わざわざ確認作業が必要でしょうか?

確認するという事は「それ」から離れるという事です、だったら確認しなくても良いでしょう。

なので私から言える事は「さっさとクソして寝ろ」ぐらいです。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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