忍者ブログ

知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

HOME • Admin • Write • Comment
意外に思われるかもしれませんが、私は芸術作品を見るの結構好きなんですよ。
上野の国立美術館とかよくウロウロしてます。
ついでに上野動物園にもたまに居ます、
昔から好きな動物はフラミンゴです。あれは何時間見てても飽きない。

ガキの頃は祖父にねだれば殆ど何でも買ってもらえましたが、
さすがにフラミンゴは買ってもらえませんでした。
ちなみに祖父は何故かキジを飼っており、死んだ後に剥製にして玄関に飾ってありました。

話が逸れましたが、優れた芸術は時間を忘れさせ、自我の働きも静め、
まさにその場に在り続ける事を可能にしてくれます。

で、自我の働きが弱まれば、何でもかんでもある種の美しさみたいのを感じて
勝手に感動するのですが、これを利用して何でもかんでも芸術にしてしまえメソッド
あります。

例えば非常にネガティブな感情を感じたら、その感情が絵画でも彫刻でも剥製でも
何でも良いですが、とにかく物質としてイメージしてしまうのであります。

トンデモなくグロい彫刻とか出てくるかもしれませんが、それを見た時の
息を呑むグロさも、一部の現代アートとか戦争の悲惨さを訴える写真とかを
見た時の一瞬の「間」に似ています。

重要なのはグロいイメージが出た時点で、既にネガティブから解放されているという事で
あります。これが段階を踏むと、あらゆるものに善も悪も無く、ただ在る事に対し
ある種の美しさを強く感じるようになります。

スピ系の本とかで「周りのものがキラキラ輝き、美しく感じた」とかの描写が出てくる事が
ありますけど、誇張でも何でもなくそのように感じる事は多々あります。

結局は全ては自分でもあるので、それらを構成しているある種の美しさが
本質的なモノの一部なのでしょう。







余談ですが最近、竹島や尖閣諸島を巡る問題で、私の周りでも韓国や中国に対し、
良い感情を持たない人が結構出てきました。

私は中華料理は好きなので中国は好きですが、キムチは美味しいと思わないので
韓国は好きではありません。
というか基本的に自分の好きな食い物の発祥の国は許します。

しかしこのメソッドでキムチも美しく見えるようになりました。
これで嫌韓の人もスピリチュアルな目覚めに近付けますね(?)
PR
以前も書きましたけど、お金の価値ってのはインフレかデフレかで変動するもので、
本質的にはお金そのものに価値は無いです。ハイパーインフレが起きてすき家の牛丼が
3億円とかになったら、1万円札で鼻かんだりケツ拭いたりしても何とも思わないかも
しれませんが、デフレなら1万円がやたらと尊いモノに見えるかもしれません。

スピ系っぽく言えば、お金自体存在しないとも言えます。
ある時は鼻紙に、ある時は輝いて見える紙切れに何の価値があるのでしょうか。

これと同じで上手い下手とか、良い悪いとか、美しいとか醜いも
実は存在しません。そして自由意志と感じるものは、本来存在しない概念に対する
反応でしかない
ものです。眩しければ目を瞑る、熱いものに触れれば手を引っ込める、
若い女を見れば勃起するのと同じものです。

もっと突き詰めれば私という存在も、周りの環境その他で決定されるもので
「私」という感覚、すなわち自我も「反応」に過ぎないのです。

全ては単なる反応なのです。
なので、これをやったら罰が当たるとか呪われるとか、前世のカルマが
どうのこうのとか
どうでも良い事です。

「思考」も反応に過ぎません、全ては反応に過ぎないのだから
反応に過剰に反応(?)する必要はありません。
それは熱いものに触れて手を引っ込めて「何故俺は手を引っ込めたのか」とか
悩んでるようなものです。

「自我」は自分が存在する、と確信したいが故に「反応」でしか無い物を
過剰に評価する傾向があります。前述したように何の価値も無いお金というものを、
反応によって何かとてつもなく貴重なモノのように感じるのもそういう事です。
全ては反応でしか無いと気付いた時、自我は消え真の世界が顔を出すでしょう。

さあ今すぐ1万円札を破り、祟りだ何だを恐れず四谷怪談で有名な
お岩さんの墓に蹴りでも入れに行きましょう、私はそんな事やりませんけど。
前回も書きましたが、起きている時も夢の中も熟睡も、皆同じという事が
わかると(わかると、という言い方は少し違いますが)
今までの確固たる自我が海の中に溶けるように揺らいでいきます。

そうなると、もはや自我にとっての問題は問題ではなくなります。
ずっと気になる事があっても、ただ単にそういうものだと感じるようになり、
余計な思考が入ってこなくなります。

そもそも思考とは「自我がある」と勘違いした結果、発生するノイズみたいなもので
それ自体に何の意味も力もありません。

もちろん明日までに片付けなければならない仕事があるなら、普通に仕事をすれば
良いのです。このブログだと度々「ゲームから降りる」という表現を使ってきましたが、
これはゲームを「諦める」「投げ出す」「逃げる」という事ではありません。

やらなければならないと感じる事があれば勝手に行動するでしょう、
夢の中でも何かをやらなければならないと感じる場面では行動を起こすか、
やらないかのどちらかが勝手に出てくるはずです。

夢の中ではそれを自由意志に基づいて行動したと思っていますが、
夢から覚めれば夢の世界自体が消滅するのですから、夢の世界での自由意志に基づいて
いると思った行動も、元々の自由意志も、実は最初から存在しないのであります。

それと同じで起きている状態での行動も、やはり自由意志はあるように感じるだけで
実際は無いのです。結局、それぞれの「世界」で最も適した形態の「自我」が
「私は存在する!」と叫んでいるだけなのです。「ゲームから降りる」とは
その存在しない「私」の声を聞かないというだけの話です。
この瞬間に「ゲームに参加する私」は消え、ゲーム=私となったのであります。

こうなるともはや全てのモノには何の意味もありませんが、
同時に全ての意味を含んでいます。


神様は尊いものではありません、自我が尊いと感じるから尊いのです。
悪魔も悪い奴ではなく、自我が悪い奴と感じるから悪いのです。

ゲーム=私になると善も悪も無く、全てがある種の調和を持ち、
存在しているかのように感じます。
丁度それはスーパーマリオがクリボーやクッパが居ないと優れたゲームとして
成り立たないのだという、当たり前の事を当たり前のように受け入れる状態です。

こうして現実も、夢の中も、あらゆる世界のベースとなっている意識こそが
アタクシであるという、衝撃の事実に気付くのであります。

「しかし現実(起きている時)には継続性があるのでは」と思われるかもしれませんが、
何かを気にしていたり、カレンダーや時計を見ると確かに継続性があるかのように感じます。
しかしそれは自我が継続性を主張しているだけであって、それ以上でもそれ以下でも
ありません。

前述したのと同じように、夢の中でも時計を見たり何かを気にしたりして
継続性があるかのように感じる場面もありますが、目が覚めれば夢の中での時間の
概念は消えてなくなるので、やはり全ては幻なのであります。

この逆で起きている時に夢の中の事をいつまでも覚えているのも、
ある意味自我が継続性を主張している状態です。

私自身も、ちょっと前の記事に書いたグインサーガみたいなオッサンに
理不尽にキレられた事を今だにムカついて、今度会ったら撃ち殺してやろうとか
思ってますが、これは何処を探しても存在しない幻が自我にとっては極めて
リアリティを持って存在しているように感じるという事でもあります。

もっと言えば起きてようが寝ていようが、自我は存在を主張さえ出来れば良いって
事ですね。その主張に耳を傾けなくなった時、初めてゲームのコマからゲームのボードに
なる事が出来るのです。
我々は起きている時に様々な思考や感情を認識し、
様々な人と話したりしていますが、夢の中でも同じ事をしています。

つまり両者は同じであります。
熟睡の状態がベースとしてあり、起きている時も夢の中でも、
全てはその上に描かれた漫画のようなもの
です。
もっと言えば起きているとか夢を見ていたとかも後付けですから、
実際は起きているもクソも無いのですが。

で、全ては漫画でも映画でも何でも良いのですが、
宇宙のパワーを身に付けたとか神と会話したとか波動の法則を
発見したとかは、漫画のキャラがそう言ってるだけで
ベースである「私」、簡単に言えば漫画が書かれている原稿用紙には
関係の無い話です。つまり全てのものは存在しないし、一瞬で消え去る
儚い幻
です。宇宙最強のフリーザも、原稿を燃やしてしまえば
もう何処にも居ないのであります。

「そうは言ってもどうにかして現実を変えたいでござる」
思うかもしれません。それならば自分が全てのベースであり、
何もかも一瞬で消し去り、あるいは生み出している源である事を
認識する事です。

冗談抜きであなたは全てのベースです。
今から寝れば、夢の中でも確固たる世界があり、そこで暮らす人々と
接するでしょう、そして目が覚めればその世界は何もかも一瞬で消えます。
世界も、人々も、その世界での概念も、その世界で自我が感じ、考えた事も、
全てがです。例えその世界で「神を見た」としても、その神すら消し飛びます。

フリーザは惑星一つを消し去りましたが、あなたは惑星はおろか宇宙も、
そして神も悪魔も全てを一撃で吹っ飛ばす存在だったのであります。

それがわかれば、あとはもう漫画の中に居ながらにして
漫画を楽しむだけです。変えるものなど無いのです、
たとえ「変わった」ように見えても自我がそう見てるだけで、
原稿用紙が変わる必要ありません。

昔の人は「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」という
大変に含蓄のある言葉を残してくれましたが、まさにこれであります。

漫画を読んでいる時に、漫画が描かれている原稿用紙は目の前にあるのに
見ていないのと同じです。見ていませんが、絶対に視界に入っているはず
なのです。カッコつけて言うなら「私は何処にも居ないが、何処にでも居る」のです。




カッコつけといて何ですが、あまり坂田師匠関係無かったですね。
読者の方からメールで面白い記事を教えてもらいました。

ttp://chaos2ch.com/archives/3713558.html

私は上記のまとめサイトにあるように自分の頭が見えたりはしませんが、
周りの人や物など、風景全部が己の一部であるかのように感じる事は多々あります。

結局全ては自分なのでうんたらかんたらとなりますが、
この”自分”という言葉が厄介で、どうしても「特定の人格を持つ誰か」を
連想してしまいますよね。

そういうのとは少し違って、例えば夢を見ている場合、夢の中の風景や
登場人物は全て自分が創ったのですから、自分の一部であり、全体であるというわけです。
つまりアイデンティティが無限に広がった状態と言えるでしょうか。

しかし無限のアイデンティティも、熟睡してしまえば消えてしまいます。
消えると言うより、無限のアイデンティティの背後にあるものが湧き出てくる感じです。

この背後にあるものこそが、スピ系ぽい呼び方をすれば高次元存在とか言われてるもの
なんじゃないかと思うのですよね。
まあ私個人としての見解ではエイブラハムはハムで、バシャールは洗剤の一種だと
思いますけどね。

次元だ何だっつーとややこしい感じですけど、早い話が仮に円柱を真下から見ると
〇(丸)に見えますけど、その円柱が倒れたら棒状っぽく見えますよね。
三次元人なら立体の概念を知ってますから「円柱が倒れたんだな」ってわかりますけど
二次元人なら丸い物体が突然姿を変えたとしか認識出来ませんよね。

で、二次元人は恐らくもっともらしい理屈を並べて丸が突如として姿を変えた事を
解明しようとすると思います。

二次元人「丸が姿を変えたのは神の怒りである」「我々の潜在意識が具現化したのだ、
想いは強く願えば叶う」「違う、吉野家の侵略だ」「この現象を利用して復縁したい」
「丸いモンは丸いというブログを書く事にした」とか、ああだこうだ言い出した所で
三次元人からしたら「円柱が倒れただけやんけ」で終わりですよね。

しかし二次元人はそもそも「立体」「円柱」という概念自体が存在しないのですから
残念ながら三次元人の説明は意味不明なわけです。

話が少し脱線しましたが、我々は普段は自我という、あえて言うなら低い次元の中に
収まっているのです。
その中から脱出して、高次元に触れる唯一の瞬間は熟睡している時だと思います。

熟睡している時こそ、先の話に例えれば二次元人がどうしても理解できず、
三次元人は考えるまでもない「立体」という概念に触れる時であります。
「熟睡状態」には多くの源泉が隠されていると思う次第です。





で、一番最初に紹介した記事で書かれている事や、私の「全てが己のように感じる」は
何なのかというと、単なる病気で片付けて良いんじゃないでしょうか。

カレンダー

08 2025/09 10
S M T W T F S
1 2 4 5 6
7 9 10 11 12
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
知らん
性別:
男性
職業:
食う寝る遊ぶ
趣味:
超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

合体と恐竜は男のロマン

メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
☆を@に変えてお願いします

バーコード

ブログ内検索

P R

アクセス解析

Copyright ©  -- 知らんモンは知らん --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by もずねこ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]