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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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覚醒体験とか至高体験とかよくありますが、これも昨日の話の流れで行くと、
体験者(経験者)の立場からだと結局は足かせみたいになると感じます。

こういった体験は私自身もかなり前の記事とかでちらっと書いてますし、これ以外にも
何だかすごい体感と感動を伴う体験みたいのはある事はありますが、
こういった体験ってスピ系に興味のある人からすると「すごい、素晴らしい」って
なるかもしれませんが、まるでそういうのに興味の無い私の彼女みたいな人から
すると、「モルダー、あなた疲れてるのよ」みたいな一言で終わりだと思います。

数年前、至高体験ぽいのを感じた後に彼女にその事を話したら、
彼女は黙って精神科の病院を検索し始めました(マジで)

ここで私が「病気なんかじゃない、これは人類の新たなステージへのアセンションで
何たらかんたら」と言った所で興味の無い人からすればキ〇ガイの戯言なわけで、
やはり「経験者」は「経験」によって傷付けられるのです。(このブログなんて全部戯言だろ!
という的確なツッコミはこの際無視します)

まあ私の場合は別に覚醒でも何でもなくリアルで病気だったか、単なる飲み過ぎ
だったんでしょう。

どんな経験にせよ経験を特別視するのは、経験と経験者という分離を起こすので
変にそういったものを求めるのは、ある意味デンジャラスなのではないかとも思います。

結局どんなに素晴らしいビジョン、感動が湧き上がっても、それを見ているという事は
既に分離
なんですよね。

私の場合は「あるべきものが、やっぱりそこにある」というのを実感した時が
ある意味一番感動したんですが、気付きというものは大変にシンプルなのかもしれません。
まあ偉そうに言えた義理じゃないですが。
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内容的には昨日の続きっぽくなりますが、そもそも何で常に不安や苦しみを
抱えている人が多いかというと、経験者という立場にいるからであります。

経験者という立場にいる以上は、様々なものからボコボコにされることは避けられません。
少しややこしいですが例えば犬に吠えられたら、「吠えられた」という経験に基づいて
経験者は快や不快を感じるわけで、その快や不快に基づき様々な行動を起こします。

ぶっちゃけて言えば「自由意志が無い」事を実感出来ないのも、この「経験者」が
妨害しているのです。
経験に基づいて動いているのだからこれはアタクシの意志だ、と思うわけですね。

「経験」は「経験者」を常にフルボッコにするのであります。
あるメソッドをやっても効果があったり無かったり、自由意志が無いと聞いて不安になったり
喜んだり、わしゃもう疲れた、となるわけです。

しかししかし、今度はその「もう疲れた」を経験者として捉えると、今度は「疲れないように」
新たな終わりなき旅へ出てしまいます。

前述した「経験は、常に経験者をボコボコにする」とはこういった事です。
しかしながら「経験と、それを経験している私」は感覚としては余りにも当然過ぎる感があり、
この分離に気付くのは意外と困難です。

ですが、考えてみれば経験とは経験者が居て初めて経験となります。
つまり経験を評価し、経験者という自我が生まれるのであります。

しかし自我は幻であります。とすると今まで見たり聞いたり感じたりした事は
全て「単なる現象」であり、それを批評する経験者は居ないのですから
全てを「受け入れてしまう」"状態"が実はデフォルトなのです。

そしてそれら受け入れたものを経験する者が居ないのですから、
結局あらゆるものは全て自分だったのであります。

で、話がいきなり下ネタになりますが、これはぶっちゃけヤッてる時と同じです。
アダルトビデオを集中して見たり、ヤッてる時は、何処にも経験者は居ません。
あるのは快楽と至福だけです。ダイレクトに「経験」は存在しますが経験者は居ません。

創聖のアクエリオンでも合体すると気持ち良いとか一万年と二千年前から愛してるとか
言ってたじゃないですか。様々なものを分離してきた経験者が居なくなった今、
一万年と二千年前にヤッてた経験はイコール自分ではないのでしょうか。
八千年過ぎた頃にヤッてたのも自分ではないのでしょうか。
一切の経験者が居なくなり、実は生きてもいないし死んでもいない永遠こそが
自分ではないのでしょうか。



下ネタからどんどん話のスケールが大きくなりましたが、話が膨らみ過ぎるのもアレなので、
とりあえず合体最高という事で今回は終わりです。
「自分は、実は存在しない」というのは難解で、これを理屈で捉えると大変に迷います。
例えば「自分とは知識や情報の集まりであってうんたらかんたら」というのは
半分は正しいですが半分は間違っています。

スピ系に限らずあらゆる知識の厄介な所は、「経験者」という概念を生み出す事です。
「自分が居なくてどうのこうの」と聞くと、必然的に「それを経験したい、
しなくてはならない、経験者になりたい」と思ってしまいます。

まあこれはよく考えなくても当たり前の事で、経験が有るからブログだ何だに
書く人間が出てくるわけで、それを読んだ人が同じような経験をしたいと思うの
当たり前ですよね。

しかし、この「経験者」は曲者であります。
何かを経験するとは、それを経験する前と後が必要になってきます、
つまりどうしても「経験する私」と「経験」が分離します。

「私は居なかった」なら「私の不在に気付く前のアタクシ」と「私の不在に気付いた後の
アタクシ」が必要なのです。

以前、「全ての行為は分離していくだけ」みたいな内容の記事を書きましたが、
まさにありとあらゆるメソッドの類いがこの罠にハマります、というよりハマらざるを
得ないのです。

そして皮肉にもメソッドを行う事による「経験」体験が分離を起こし、
苦しみを生むのであります。「経験」とそれに伴う「経験した私」の境界線で戦いが
起こるわけです。
「実践した(という経験)」と「実践したけど何かしっくり来ない私」が
原因で苦しむわけです、これは仮に「実践してうまく行った」場合でも今度はその
「成功した経験」を追いかけるので同じことです。昔から争いは領土の境界線で起こると
決まっているのであります。

この苦しみを終わらせるには、「経験者」が居なくなれば良いのです。
というより最初から経験者など何処にも居ません。
あらゆる経験は経験であって、ただそれだけです。

炎が燃えていても炎があなたであって、炎にビビる、苦しむという「経験者」は
居ないのです。「経験者」である事を止めましょう、すぐに苦しみを経験している者は
消え去ります。

で、話が戻りますが「私が居ないのを体感したい」なら何をやっても良いし、
何もしなくても良い
のです。何故ならその「経験」を通じてあれやこれや騒ぐ
「経験者」は最初から居ないからです。
前回も書きましたが、何かから逃れるために感じきるとか受け入れるとかを
行うわけではありません。この辺は誤解を生みやすく、ややこしいので
今回は補足であります。

なにかネガティブな感情や思考を感じた、ここまでは良いのです。
問題はここから「ではこのネガティブを感じ切ろう、受け入れよう、
愛してるでござる」とかやり出すのがスピ系の悪癖みたいなものであります。

感じるとか受け入れるは"行為"ではありません"状態"です。

そもそもネガティブを感じた、と自我が言うのはともかくとして
その直後に「感じきれ、受け入れろ、うんたらかんたら」と
"指示"している謎の声は一体何なんでしょうか。

自我に命令している黒幕がいるようであり、しかも自我はその声に
素直に従って"感じ切ろう""受け入れよう"と始めます。

昨日、第二次安倍内閣が発足したので強引に政治ネタに絡めると、
昔の小沢一郎みたいな黒幕っぽいオッサンが、自我が感じた事に対して
瞬時にこうしなさいと告げ、自我はそれを何の疑いもなく
「小沢先生最高!!感じ切ります、受け入れます、愛してます」
やっているようなモンです。

これはもう完全な猿芝居です。
なんの事はない、この猿芝居が"真実"と思い込まされていただけです。

思考は飽きることなくこのような猿芝居を常に行っています、
思考を止めるとは猿芝居を止める事です。

芝居が終わったら、初めて真実が顔を出します。
芝居という"行為"は終わりを告げ、本来の"状態"になるのであります。
全てを認めるとか受け入れるとかは、意外に難しいものであります。
何で難しいかっつーと、やはり現状の問題なり何なりを解決する、
または克服する(しなくてはならない)というある種の責任感みたいのを
自我のレベルで持ってしまうからかもしれません。

しかしこれも以前書きましたが、自由意志があると勘違いしている事から
起きる葛藤であり、苦しみです。

例えば、歯磨き粉のチューブの口が星の形とかになってれば、そこからブニュっと出てくる
歯磨き粉は星形ですよね。歯磨き粉は自分の意志で星形になっているのではなく、
星形として出てくるしかないのであります。
つまり歯磨き粉に自由意志なんてありません。

これは見方を変えれば重圧からの開放でもあります。

何故なら星形で出て来る歯磨き粉に一切の責任は無いからです。
歯磨き粉が星形で出てくるのは馬鹿だったわけでもなく、
運が悪かったわけでもなく、過去の因縁からでもなく、
ただ単にチューブの口が星形だったから、というだけです。

つまりこれを当てはめてみれば、あなたが(正確に言うとあなたの自我が)
不幸を感じているのも、メソッドのやり方が悪いのかもとか心配しているのも、
何だか知らないけど泣きたい気分だとかも、全てにおいて責任は無いのであります。

つまり何を感じていようが考えていようが、チューブの口が星形だったごとく「そういうもの」
なのです。歯磨き粉が、どうして私は星形で出てきてしまうのとか悩む必要は無いのと
同じで(チューブの口が星形なんだから悩みようがないですよね)何も悩む必要は無いし、
苦しむ事も無いのです。

星形で出てくる歯磨き粉は、本来自分は星形だという事すらわかりません。
星形だとわからない以上、どうして私は星形なのとか苦しむ事はありません。

しかし見るものと見られるものという分離が起きると、そこで戦いや苦しみが起きます。
様々なメソッドやお祈りを実践しても、行う者と行われる者という分離がある以上、
どうしても一時的な苦しみと一時的な喜びは付きまといます。
結局は国と国の境界線上が最も争いを招くのは世の常なのであります。

様々な思考、感情、行動が出てくるのは、しょうがないのです。
しかし本来のあなたは歯磨き粉ではなく、歯磨き粉を出しているチューブの口なのですから
出てくるものに責任や罪悪感を感じる必要は全くありません。

朝起きて通勤途中に車に轢かれた猫を見ても、それは不吉の前兆ではないし、
女子高生のパンチラを見ても吉兆ではありません(逮捕フラグです
星形の歯磨き粉が出るが如く、「そういうもの」なのです。

「では何故私はこんな不幸なんでしょう、どうすればチューブの口を変化出来るのか」
これも既にこのタイミングでそのような思考が出る「形」になっているだけで、
「形」である本来のあなたがこの思考(歯磨き粉)について思い悩む事はありませんよね。
思い悩む事は無いって事は、つまり不幸でも何でも無いって事です。

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かなりアバウトな性格の既婚平民

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