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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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前回の記事で「何をやっても間違い」なので、じゃあゴロゴロ寝てるだけで
良いのか、と思われた人も居るかもしれません。

まあ結局はそんなモンなんですが、そもそも我々は常に分離状態である事が
ある意味デフォルトであります。

つまり何かを知覚・認識する時点で既に分離です、仮に目の前に人参があったら
「人参」と「人参を見ているアタクシ」が出てきますし、「何もしないで布団でゴロゴロ」も
「何もしないで布団でゴロゴロしているアタクシ」があるので分離です。

と言っても別に分離してるからよろしくないとか、分離してるからアホとかいった事は
一切ありません。
前述したように分離状態はデフォルトであり、そこからいかに本来の自分に気付くか、
という事であります。

で、ここまで読んで色々考えたり感じる事もあるかもしれませんが、
本来のあなたは思考ではないし、感情でもないので、それらが感じられるという事は
既に分離したという事です。いかに分離がデフォルトなのかよくわかると思います。

なので「気付く」という言い方も厳密に言えば間違っているのです。
何故なら前回も書きましたが「気付く前」と「気付いた後」が存在しなければならなくなると
いうのと、「気付かれる対象」があるという事は、その対象と分離しているわけですから
「気付く」という表現はあっても、実際はありえないのであります。

かなり話がややこしくなってきましたが、スピ系で言われているメソッド類は殆ど
「実は分離がデフォルトだった」事に気付き、そして全て捨てていく形になっている事が
多いようです。

よく言われる「フラットに全てを受け入れろ」というのも、まず感情や思考が入ってくると
わけがわからなくなるので取りあえずそれらを鎮める。
で、思考に振り回されなくなったら今度は思考や感情を見つめる方に移行し、
本来の自分は静かである事に気付き、今度は「静かであると気付いてるのは誰なのか」と
なります。

で、それを繰り返すと「静かという事は、実は誰も居ない」となり、今度は
「では何故誰も居ないのに誰も居ないと認識出来るのか」と何か小学生の口喧嘩みたいな
展開になりますが、ここで「誰も居ない」という認識は、実は自我の抵抗であることに
気付きます。

つまり分離=自我の抵抗がまずデフォルトとしてあり、
それによってあらゆる知覚、認識が起こっていたのであります。
知覚・認識さえあれば思考も感情も出てくるので、自我は消滅から免れます。
全ては自我の抵抗が生み出すものだったのです。

なので「誰も居ない」「私は居ない」という認識さえ、厳密には
自我の抵抗であります。

そしてそれらの抵抗に基づいて様々なメソッド類に取り組むわけですから、
やる事成すこと全部間違い(分離)なのです。

が、しかし。 メソッドを実践しなければあらゆるものが自我の抵抗だと
わからぬまま分離と抵抗の中で苦しみ続けるわけですから、
やはりメソッド類は実践した方が良いのであります。

前回書いたように反発する磁石をわざと近付けないと磁力を認識する事が
出来ないように、敢えて「間違った」事を行うのは正しい事なのです。



最終的には、グルッと一周して来たように「ゴロゴロ寝ている」に戻るでしょう。
しかし、そこには「ゴロゴロ寝ている」者は何処にも居なくなっているのです。
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「思考を止めて生活してみたら良いことが起きた」とか「世界は私と気付いたので、
愛を送ったらとても心地良かった」
というメールを頂く事があるのですが、
大体一ヶ月もしない内に同じ人から「また苦しくなってきました」とか
「愛を感じられなくなってしまった」みたいな内容で送られてくる事が多いです。

愛はともかくとして、思考を止めてどうのこうのはこのブログでも度々書いてきましたが、
なかなか真意が伝わらないようです。
そろそろ今年も終わりですし、難民(?)を救わねばならない時期が来たようです。

そもそも何故このような行ったり来たりの事が起きてしまうのでありましょうか、
これは由々しき問題であります。

ぶっちゃけて言うと「間違ってるから」なのです、答えはこれだけです。
が、しかし。 「間違っている」から「では正しい答え(やり方)を求める」ではありません。

取りあえず検証していくと「思考を止めて云々」「世界は私と気付いて云々」は
文章で書くと確かにこう表現せざるを得ないのでしょうがないのですが、
実はこれスタートの時点から既に間違ってます。

間違っているという表現は語弊があるので、言いかえれば片手落ちという所です。
何でかっつーと、まず「全てのものが私」であるならば時間は存在しません。
時間が存在してしまうと「時間」と「それを感じている、見ている私」が存在するので
この時点で分離します。

同じく「愛を送る」云々も片手落ちです。
これも「愛」と「それ(愛)を感じる私」が存在するのでこれまた分離です。

で、これをまとめると「思考を止めて生活してみた」とか「世界は私であると気付いた」は
表現としては正しいのです。しかし表現は表現であります、実感は違います。
「月を示す指は月では無い」とか昔の人はカッコイイ言葉を残していますが、
これは至言であります。

理屈で言うと、「思考を止めてみました」っつー事はそれ以前(つまり思考を止めようと
する前)が存在しなくてはならないのですから前述の「時間は存在しない」と
整合性が取れなくなるので「思考を止めて云々」は表現としてはそうなるのですが、
実は間違っているのです。

同じ理由で「世界は私と気付いた~」も「愛を送るようにして~」も間違いです。
それぞれ気付く以前、送る以前が存在しなくてはならないからです。

「という事はこの理屈で言うとあらゆるものは全部間違いという事ですか?
だっていかなるメソッドだ何だもそれを知る前、それを行う前という宿命からは
逃れられない
ですよね?」

その通りです。
ここが難しい所かもしれませんが、私たちが思考の範疇で行うものは
全て本来の「私」から離れていく、間違った試みであります。

「思考を止める」も間違いですし「何もしない」も間違いですし「世界は私であった」も
「全てすき家の意志」も間違いです、例えそう表現せざるを得ないにせよ、
「それ」を実感している世界からは間違いです(くどいようですが、表現としては正しい)



何をやっても、何を考えても間違いにならざるを得ないという絶望的な結論が
出てしまいました。 しかし、まだ手はあります。

行う事全てが間違い、本来の「私」から離れているのならば、その「離れている」事を
自覚する事により逆説的に本来の「私」を感じる事が出来るはずであります。

同じ極同士の磁石を近付けると磁石は明確に反発、すなわち離れていきますが
決して見えない「磁力」を感じる事は出来ます。これは同じ極同士を近付けるという
「離れる」行為を行なったからこそ磁力を「垣間見る」事が出来たわけです。

「思考を止めよう」とか何だとか思ったら既に「離れている」のです。
繰り返し「離れ」ていると、磁力を見る事が出来るのと同じように、
完全に思考が止まる瞬間が訪れます。
それは時間も何も無い本来の立ち位置に戻った時です。

そして何かの拍子にその止まっている状態が途切れてから、つまり分離してから
「世界は私だった」とか「愛だけでした」という感想を持つに至るのであります。

寝てる時に「俺は今、とても深い睡眠を取っている」とは感じないのと同じです、
起きてから、「よく寝たなあ」と言うのに近いです。

世界と私のラインが消えた時に「消えてる」とは思いません。
消えてると思う「私」は何処にも居ないからです。

何かを行なっている「私」も無く、生きている「私」も無く、死んでいる「私」もいない。
「それ」とか「これ」という区別も無いのであります。
最近どうでもよい話しか書いてないので、たまにはメソッド的な事も書きましょう。
「受け入れる」についてであります。

まず抑圧された感情というものは必ずどこかに溜まっていきます。

簡単な例では肩が凝ったとか腰が痛いとかも筋肉が萎縮しているわけですから、
抑圧されたものと言えます、そしてその抑圧は紛れも無く自分自身が
行なっている
ものです。

「そんな事はしていない」と言うかもしれませんが、肩を緊張させたりする事が
出来るのは自分だけですから、やはり自分がやっているのです。
普段は緊張に気付けないなら、いわゆる潜在意識の仕業かもしれません。

顕在意識にせよ潜在意識にせよ、とにかく自分が緊張している(させている)わけです。
なのでまずは、その事を認める事が肝要です。

で、認めたら次はどうするか。
「この緊張を消そう!」ではダメです、緊張させているのは自分なのですから、
自分が行なっている緊張を打ち消すという行為は、さらなる緊張を生み出します。

結果として自分の中で戦争が起きてしまいます。

それとは逆に、緊張させている(緊張したい)のだからもっと緊張させてやれば
良いのです。

リラックスには限界はありませんが、緊張には限界があります。
風船をどこまでも膨らませることが出来ないように、緊張しまくればいつかは破裂します。

つまり緊張が持続できないほど緊張させてやればよろしい、
結果として肩凝りが軽くなるかもしれないですし、スピ系な話に戻せば
抑圧された感情に気付けるかもしれません。

いきなり泣きたくなるかもしれないですし、怒りたくなるかもしれません。
それが抑圧されたものですから、思いきり泣けば良いし、怒って良いです。
「世の中間違ってる!」とか叫んでも良いと思います。

抑圧された感情や、それに伴う緊張を解放した事で、自作自演の戦争は
終わるのであります。

少し話がごっちゃになりますが、筋肉の緊張以外にも、心理的な緊張にも
上記の方法は使えます。スピ系でよく言われる「受け入れる」っつー奴です。
受け入れるだけだと単に緊張や不快感を生じるだけですが、さらに受け入れて
どんどん緊張と不快感を増していくと良いです。

風船が破裂するまで緊張させまくるのです。本来風船の中にある空気と、
外にある空気は同じものですが、風船が破裂するまで同じである事には気付けません。
真の解放のためには風船を破裂させる必要があるのです。

ちょっと不快感を感じたから「受け入れます」とか「愛を送ります」なんて
口先で唱えるのは、それこそ単なる念仏に過ぎません。
ちょっとどころかたんまりと不快感を感じる必要があります、
何故ならその不快感は風船の中に入った空気だからです。

風船の中に空気が入りっぱなしだと、どんどん淀んできます。
そうなる前に、つまり感情を抑圧する前に、風船を破裂させて内も外も無い状態に
する必要があるのです。



余談ですがスピ系にハマる人ほど却って抑圧させている事が多いです。
「こんな素晴らしい教え(?)みたいのを実践しているのだから全てに優しく接して
どうのこうの」とか「なんかすごい事に気付いたっぽいからもう少しカッコつけて
みようかな」とか、スピ系の知識みたいのが抑圧の元になっている事が多いように
感じます。

まあ一番ひどいのは「ただのボンボンのくせにエラソーに能書き垂れてるオッサン」
でしょうけど、それが誰なのかは言わない約束です。
前回「とりあえず皆さん御一緒に幸せになればうんたらかんたら、
友達が先に結婚してもお祝いしてどうのこうの」と書きましたが、
「そんなのやっぱ無理」という方も多いと思われます。
というわけで内容は殆ど同じですが補足であります。

早い話がですね、全てはオーケストラのようなものです。
オーケストラは様々な楽器が調和して一つの旋律を作り上げていくわけで、
そこに楽器同士の優劣とか演奏者同士の戦いというものはありません。
あるとしたらそれは何故か戦いのつもりでやってる演奏者の中にあるだけで、
本質的にはどこにも戦いとか分離はありません。

なので「オーケストラの意識(?)」みたいのに気付くと
もはやそこには調和しかありえません、戦いや苦悩を見ていたのは、
まさに見たいから見ていたのです。
オーケストラの調和には「個」が存在しません、しかしオーケストラは存在します。
ここに真実の自分を垣間見る瞬間があるのです。

これはディベートでも同じで、本来ディベートとは、競技ディベートはともかくとして
互いの意見や主張を通して最終的にはお互いを尊重し、納得できる結論に
導いて行き、勝ち負けなどではなく議論を通じて各々の知的レベルの向上を
計るというものであります。つまり調和を目的としたものなのです。





何故に突然ディベート云々とか言い出したかというと、
私の彼女が学生時代にディベートのサークルだか何だかに所属してたそうで、
知的レベルの低い私にディベートとはこういうモノや、みたいにエラソーに
講釈垂れていた事を急に思い出したからです。

講釈は立派なのですが、私と言い合いになるといつも私をボッコボコに言い負かすまで
止めないのはディベートの精神に反しており、私の尊厳も踏みにじられているような
気がするのですが、これは気のせいでしょうか。
最近の記事と内容が少々被りますが、様々な関連付けを止めるっつっても
難易度高いやんけ
というメールを頂きました。

確かに関連付けを止めるのは少し難しいかもしれません、
しかし関連付けという思考も、結局は単なる思考であります。

なので関連付けを始めても、それはただ単に風向きが変わった程度に
感じれば良いのです。外を歩いてて風向きが変わったぐらいで
いちいち吠えてたらそれこそアホです。

感情や思考にあなたを苦しめる力はありません、風があなたを傷付ける事が
出来ないのと同じです。が、風に向かって歩いたらバランスを崩して怪我するかも
しれません。

怪我の原因は風のせいではなく、風に向かって歩いたせいです、
怪我をするべくしてしたのです。

つまり風に抵抗した動きが苦しいのであって「苦しみの風」とか「絶望の嵐」みたいな
ファイナルファンタジーに出てきそうな風は存在しません、
存在するとしたらそれは、あなたが風に向かって歩いた時だけ存在するかのように
思える幻想です。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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