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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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昨日もちらっと触れましたが「自由意志は無いべ」となると
モーレツに抵抗を感じる人が多いようです。
自由意志が無い方が楽じゃないですか、だって動く歩道に乗ってるようなモンですよ。
と言っても何か不安になってしまう人の方が多いようなのであります。

これも以前に書いた記憶があるんですけど、結局願望だ何だってその人の置かれてる
状況に準じたものしか出てこないし、その人の見ている世界の中の、常識の範囲内に
留まっています。

例えば「身長を伸ばしたい」と思っても、それは170センチから180センチぐらいにとか、
その程度のモンです。170センチから50メートルぐらいになりたいとか言ってる人は
いないと思うんですよね(いたらゴメンね)

まずそんな大仏みたいなデカさになったら食費がすごいことになりますし、
住む場所も限られてきます。オシッコやウンコをすれば都市一つが壊滅し、
最悪の場合、自衛隊の攻撃を受ける恐れが出てきます。

しかし、実際はそんな大仏にはなりません。大仏になったら困るだろうなって世界を
見ているからです。つまり見えている世界の中で既にロックが掛かっているのです。

つまり、裏を返せば特定の願望が叶う舞台設定は既に目の前に存在しているのです。
誰が決めたわけでもない舞台設定が、もう用意されているんです。

ですからもう後は舞台設定に乗っていけば良いだけなのです。
自由意志が無いと気付くという事は、この「最初っから設定されていたもの」に
気付くという事です。もう全てはスタンバっているのです、全て受け入れればOKです。

今、見ている世界が無ければ特定の願望は出てきません。
歩きたいと思ってるのに、いきなりブラックホールにほっぽり出されるような事は無いのです、
ちゃんと歩く事が出来る惑星を舞台にしてくれているのです。

だったらもう何も考えずに用意してくれた舞台を楽しめば良いじゃないですか。
楽しむ事をためらっていたら、そりゃ苦しいでしょう。
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昨日の記事について「あんまりメチャクチャな状況だと最高とか何だとか思えないんですけど、
どうしましょう」みたいなメールを頂きました。

昨日の内容だと「最高!」をやや強調し過ぎた感があるので少し補足しますが、
別に無理矢理「最高だわ」とか思わなくても良いのです、というよりポイントは
状況に対しああだこうだと思わないことであります。

つまり「今に在る」っつー事ですね。
今に在ると、世界が勝手に動いてくれるので、「現実」と思っているものに
あれやこれやと干渉するのが馬鹿馬鹿しくなってきます。
「私」が動いているのではなく、世界が勝手に私を運んでくれるような感じです。

例えるなら、口から入った食べ物の残りカスが、勝手に肛門まで運ばれて勝手にウンコとして
出ていくような感じでしょうか。

まあ何言ってんだかわかんないと思いますが、とにかく思い悩むぐらいなら
一切の干渉を止めてみた方が良いです。どうせ自由意志なんか無いんだし。

自由意志が無いと言うことは、つまり小さな私(いわゆるエゴとか何だとか言われているもの)では
なく、もっと大きな無限の広がりに身を任せるということです。

極端に言えば、ゴキブリの脳みそより人間の脳で考えたことの方が全然良いに決まっているんだから、
ゴキブリの脳みそでせせこましく考えるのなんか止めちゃえよって事です。
「自由意志云々」自体がすでにゴキブリ目線の考えであって、人間様はそんな事考えないのです。

でも何でそれが出来ないかというと、ゴキブリの脳みそだと人間様の脳を理解できないので、
「不安」になってしまうわけです。「そんなわけわかんないもんに任せてゴキジェット喰らったら
どうすんだよ!」とか思ってしまうわけですね。

でもそれすらもゴキブリが考えた事ですから、考えれば考えるほど意味が無いのです。

ですから色々考えて答えが出ないなら、考えるのを止めてみましょう。
昨日の「無一文でも万事OK!」はエゴからすれば強烈な抵抗を生み出すものだと
思います。実際、読者の皆さんからのメールでも「無一文を受け入れて、幸せを
唱えていれば良いのか」みたいな内容のメールも頂きましたが、
これだと「無一文」は不幸であるという概念を強化しているだけです。

無一文を受け入れる、のは良いのですが別に幸せを唱える必要もありません。
何故なら無一文は不幸ではないからであります。
無一文自体に不幸という要素はありません、それにくっついてくる様々な概念こそが
「不幸」という勘違いを生み出しているのです。

Aさん「いや、それは違います。私は現に破産して妻と子供に逃げられました。
これを不幸と言わずして何というか、やはり無一文は不幸なのです」


これもよく見れば破産とか家族に逃げられたと「不幸」はイコールではありません。
イコールにしているのはAさんです。
Aさんの見ている宇宙では破産することは不幸であり、家族に逃げられるのも不幸であるという
定義付けをしていたから、そうなっただけであります。

「破産しそうだ」「これは不幸な事だ」と勝手に結び付けたので、信じた通りに
なったという事です。ちょっとわかりづらいかもしれませんが、破産という概念と、不幸という
概念を勝手に結びつけて、不幸を創っているだけなのです。

破産という概念と、不幸という概念を結びつけなさいという法律は無いのに、何故かそれを
やってしまっているわけです。
破産という概念と、幸せという概念を結び付けても、
別に誰も文句は言いませんよね。

それと同じで恋人と別れたという概念と、復縁という概念を何で勝手に結び付けているんですか?
結び付けなきゃ良いじゃないですか、別れたと復縁はイコールじゃないですよ、
それをイコールにしてその世界を創るかどうかを決めるのはあなただけです。

復縁でどうのこうの苦しむぐらいだったら、別れたと幸せを結び付けた方が良いと思います。
その結果、幸せを創れます。それは結果的には復縁かもしれませんし、もっと素敵な異性との
出会いかもしれません。それはわかりません、でも幸せと結び付けた以上、
あなたは「今」幸せになれる。昨日も書きましたが将来的な成功なんてありません、
「今」どうなのかという事です。「今」幸せを選択すればよろしい。

もう復縁という概念を持ってこなくて良いんです、苦しむ必要なんてありません!


最近、復縁で苦しむ方のメールを頂いたので、柄にもなく熱く語ってしまいましたが
このブログ的に言えば「復縁で苦しんでいる人は、イコール気の毒だ」と勝手に結び付けているのも
私自身なんですねえ、私もまだまだ修行が足りません。
私の祖父は今から10年ちょっと前に亡くなったのですが、
地元ではそれなりの資産家で知られる人でした。でもって7人もガキを作っていたので
当然遺産を巡っての骨肉の争いが勃発しました。

私は単なる孫なので直接は関係無いのですが、オヤジが相続した祖父の遺産の
一部を譲り受け、それを現金に変えると結構な額のお金になりました。

当時まだ二十代だった私はそのお金で遊びまくりました。恐らく後にも先にも
あんなに遊んだことはないというぐらい遊びました、まさにリア充街道まっしぐらです。

しかし、良かったのは最初の一週間ぐらいであとはもう虚しいだけでしたね。
結局、遊びってたまに遊ぶから良いんで、それが当たり前になっちゃうと
もう作業なんですよ。
モンハンが最初は楽しくても気が付くと作業ゲーになってるのと同じです。

当時は「女遊びって意外とすぐに飽きるんだな」とか女性の事ばかり考えてましたが、
今思うと結局お金って本当に単なる紙切れで、それが決して幸せを運んできてくれるものではない
っつー事に何となく気付けたのかなあとか思います。

お金と幸せ、あるいは異性の存在と幸せって強烈に関連付けてしまうものですけど、
実際は関連付けているからそのように見えるだけで、別に関連性はありません。
お金があるから幸せ、恋人がいるから幸せは、そう見えるだけで別に両者に関係は
無い
のです。

もちろんお金が無いから不幸、恋人がいないから不幸、も関係ありません

で、昨日の話だと我々は実は一つなので、本来幸せとか不幸って概念はおかしいんですよね。
エゴの視点だと他者との比較で幸せとか不幸とか判断してしまいますが、
一つであるなら何が起ころうが全然関係無いので、幸も不幸も無いのです。

ですから別に金持ちになろうが、無一文になろうが、恋人が居ようが居まいが
全然OKなんですね。

でも「無一文になるなんてトンデモねえ!俺には女房も子供も居るんだ!」と
思われる方もいると思われます。
しかし、それは既に無一文と不幸というものを勝手に結び付けているだけです。
そして「金持ちになれた、これで女房と子供を食わせていける!」というのも
金持ちと幸せというものを、やはり勝手に結び付けているだけです。

別に「無一文になった!女房と子供を食わせていけるぜ!」でも良いのです。
数日前に書いた「ケツを掻く度に1万ペソ」と似ていますが、
何故「無一文になった、女房と子供を食わせていけるぜ!」が異常に感じるのか、という事です。

別に「無一文なったけど大丈夫」とか唱えろと言っているのではありません、
いかに関連付けで構成されているニセモノの世界に生きているかという事に
気付いて頂きたいわけです。

関連付けをどんどん無くしていくと、もう「私」は何処にもいません。
一つである事を思い出さざるを得なくなるのです。
波ではなく海になるのであります。
そして海が、あなたという依代を通じて世界に流れ込むのです。

あなたの全ての行為は、大げさに言えば母なる海の代弁者であります。
言葉や行為を持たない海が、あなたという依代を通じて「今」言葉を発し、行為しているのです。
まさに「今」しか無いのです。

ですからあなたは将来的な成功は出来ない、出来るのは「今」成功する事だけです。
海から流れ込む行為を、世界に送り込むという「今」やっている行為こそが
至高の行為なのであります。

これって、何かに似ていると思いませんか、そうイタコです。
本当の意志を持っているのは海であって、我々(と思っているもの)は
単なる仲介者のイタコだったのであります。

なんか最近はわかりづらい記事が続いていますが、
まあ早い話が「依代なんだから余計な事しなくて良いよ」ってだけの事なんですけどね(笑)
昨日の続きですが、「調和」とは早い話が風まかせって事です。
ぴゅーっと風が吹いたらAさんは「寒いなあ」と感じるかもしれませんが、
運動直後のBさんは「涼しいわ」と感じるかもしれませんし、結局各人の置かれた状況で
感じ方が違うわけですね。

本来の我々はこの「風」なのですが、風に対し色々な概念や思考をくっつけていくから
各人が別々の存在に感じるわけですが、本来は風そのものなのですから我々は一つなのです。

「寒いと言ってるAさんと、涼しいと言ってるBさんと、それを見ている私」というのは
本来存在しないのであります。思考や概念で分断するからいかにも「A、B、私」という三名が
いるかのように感じてしまうだけなんですね。

と言ってもあまりピンと来ないと思いますが、これは思考を思考として捉えない事で
わかります(多分だいぶ前に同じ事書いてます)

例えば「今日は寒い日だ」という思考(心の声みたいの)を単なる音声として認識すれば、
もう「寒い日」は存在しません。同様に「あなたと僕」も単なる音として認識すれば
「あなたと僕」は居なくなってしまいます。

さらに音である、という思考や概念すら放棄すれば完全に無になってしまいます。
しかしこの「完全な無」を何故か「完全な無」と認識している何者かがいます、
それならばって事でその「完全な無」を認識している何者、という概念すら放棄すれば、
我々が現実世界と思い込んでいる世界はどんどん”消えて”いきます。

「あれ?でも目の前でウチの飼い犬がいびきかいてんだけど?」と思った方、
見事に「あれ?でも目の前で~」という思考を思考として認識しているじゃありませんか。

思考を認識しないと、嫌でも全ては一つになってしまうのです。
その一つとしての活動が世界との調和であります。

この辺の話はエゴ視点だと殆ど理解不能だと思われますが、
極論すれば鼻をほじるのもケツを掻くのも「世界」として活動しているのです。
鼻をほじらないと「調和」が崩れるから、ほじっているとも言えます。
そう、そのハナクソに宇宙が存在するのです。

思考を認識しなければ、「現実世界」と思っているものが崩れていき、
真の「調和」が垣間見える瞬間は必ず来ます(多分)

それは鼻をほじっている時かもしれませんし、ウンコしてる時かもしれませんし、
テレビで研ナオコを見た時かもしれません。
いずれにせよ一瞬の天啓のような形で現れます。

今回のはちょっとわかりづらい感じになってしまいましたが、
前も書いたように我々は「思考すること」に何の疑問も持っていません。
ですから思考というよくわからない概念を疑ってみることです。

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