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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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昨日の記事の内容について「一度殴られたぐらいなら受け入れたり出来るけど 
何度も殴られたりしたら猛烈に復讐願望みたいのが出てくるので、こういう時は
どうすんの」
という内容のメールを頂きました。

まず「何度も殴られる事態」というのが世界=自分であるという観点から見ると
どんだけ殴られたがってんだという話になりますが、結局そのような事態が
繰り返し繰り返し起こってしまうということは、何かしらそのような概念的なものが
内面に存在するということです。

ですから昨日の話に戻ってしまいますが、「殴られた」や「怒り」と距離を置こう、と
なってしまいます。

もし仮に復讐が成功しても、それによって様々な感情が渦巻いて、結局それらに
振り回されてしまうと、今度は「復讐を望みたくなるような出来事」
次々と起こってしまうかもしれません。

こうなるとまさしく血で血で洗う毎日に突入するかもしれないので、
そういった仁義なき戦いに身を投じたい人はともかく、普通に暮らしたいと
思っている人には、やはり復讐願望自体持つ事をお薦めしません。

結局の所、復讐という「願望」も一般的な願望実現メソッドと同じ罠に陥りやすいのです。
まあ復讐したいも結婚したいも「同等」なんですけど、復讐したいんであなたに愛を送りますとかは
難しいですよね。

「復讐したい→復讐したくなるような事が次々起きる」は願望実現メソッドに熱心に取り組むと
「願望を実現したい」→「願望を抱くような出来事(不足)」が次々と起こるという
ループに陥る場合と似ています。(実現したい、のだからお望み通り実現したくなるような不足が
次々出てくる
わけです)

このループを脱するには少し骨が折れると思われますが、
その辺は次回以降の話です。

まあ以前の記事でループを脱するための話みたいのを恐らく書いていると
思うのですが、そんな事は気にせずこのブログの内容もループであります。
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以前の記事で、「好きな人がいるのはあなたがあなたを好きだから」
書きましたが、じゃあ嫌いな人の存在は何ぞやと思うかもしれません。

「好き」という言葉から受ける印象が色々あるので表現が難しいのですが、
全部自分が創っているのだから、基本的に「全部受け入れる」つまり「嫌いとか
憎たらしいとかが無い」
という事です。

つまり「受け入れ状態」=全部好きとか愛が溢れてますとかスピ系でよく見る
クサい表現の状態がデフォルトなわけで、嫌いという概念は本来存在しないので
あります。

ただこう書くと「じゃあさっき私をぶん殴った変なオッサンまで好きだよとか
愛しているとか感じなきゃいけないんですか、そんな事出来ません!」と
なると思われますが、そういう意味ではありません。

それだと「殴られた怒りを抑えるために」無理矢理「愛を感じます!」とか言い出すという、
傍から見るとアブナイ人になってしまいます。

実際はただ単に殴られたっつー事が在るだけです。それを創ったのはあなたであります。
「なんでそんな事を創ってしまったんだ!」 そんな事は知りません、
大体そんな事いちいち言い出したら、なんで自分が日本人なんだとか、なんで俺は男なんだとか
なんでこのブログは飽きもせずに毎日更新されてるんだとか切りが無いじゃないですか。

つまり「何故俺は日本人なんだ!」と「何故俺は殴られたんだ!」は同等なのです。
「殴られた」という言葉から受ける印象で「何だか良くないものを創っちまったぜ!」
勝手に騒いでいるだけなのです。
つまり「殴られた」という言葉、イメージに「悪い事だ」という「力」を与えているのは
他でもないあなたであり、あなたにしか出来ない事なのです。

それに気付けば、嫌いな人だろうが何だろうが関係無いのであります。
嫌いな人は、嫌いだという事に何故か力を与えていたので、どんどん肥大していくのです。
一日中嫌いだ嫌いだと感じていれば、そりゃどんどん「嫌い」が増大していきます。
好きな異性の事を一日中考えていると、どんどん「好き」が増大するのと同じです、
つまり紛れも無くそれらを創り出しているのはあなたです。

ですから「嫌い」に意識を向けなければ良いだけです、そうすればもう「嫌い」という事に
意識が行かなくなるので、「嫌い」は世界から消えていくでしょう。外の世界(と思っている)の
嫌いな人をぶっ殺して抹殺するとかではなく、あくまで自分の内側に
「嫌い」が創られているのだと気付き、それと距離をおけば良いだけです。
「嫌い」を肥大させるか、それとも距離を置くかはあなたにしか出来ません。

もし「殴られた」なら「殴られた」にわざわざ力を与えない事です。
「殴られた」が主役ではなく、主役はあくまであなたしかいないのです。
別に殴られたなら怒っても全然構わないのです、ただ主導権が怒りの感情にあるか、
その感情を認識しているあなたにあるかで、その後の展開はだいぶ違います。

つまり、感情とあなたは別物という事です。
どんな感情が湧いて出てこようが、それはあなたとは関係ありません。
関係無いということは、感情が主役ではなく、感情を選ぶことのできる存在、
すなわちあなたが真の主役であるということに気付けるのです。
ここ最近は証拠を探すなとか何だとか書いていましたが、
テメエ何言ってるかよくわかんねーよという方は、願望がどうしたこうしたは置いといて、
「生きている」という証拠探しも止めてみたらどうかと思います。

大体何を根拠に我々は生きていると思っているんでしょうか?
手のひらを太陽にすかしてみれば真っ赤に流れる僕の血潮だからだ!という方も
いるかもしれませんが、とりあえずそういったあらゆる根拠を一旦疑ってみるのです。

あらゆる根拠を疑ってみると、実は我々は最初から生きてはいないという事に
気付くかもしれません。 では我々は既に死んでいるのか?というと別に死んでもいないと
思います。死んでいるという根拠も、やはりはっきりしないからです。

こう言うとちょっと宗教チックですが、我々は生死を超越した単なる「無」だったのであります、
以前ムームー星人とかいうタイトルで書きましたけど。
そもそも「生死」という概念自体が勝手に作り上げたのものです。

生きてもいないし死んでもいない、しかしながら何かに意識を向けると、意識を向けたものが
具現化していただけだったのです。

これは自分の肉体とか思ってるものもそうです、意識を向けなければ肉体は存在できないのです。

「俺は呼吸しているから生きているよ」というのも「呼吸」という概念に意識を向けたから
呼吸が出てきたわけで、そこから「生きている」という概念に勝手に結びつけて
いかにも結論付けているだけです。
この辺が、昨日ちらっと書いた願望の実現とそれまでの過程は実は何の関連性も無い、
という事にも繋がるのですが、今回はその辺の話は省略します。

さらに記憶だの時間だの何だのといった余計な要素がくっついて「偽りの私」(エゴ)が
誕生して、
いかにも俺が主役だみたいにエゴが振舞っていただけだったのです。
だからこのブログも意識を向けたから出てきているだけで、意識を向けなければ存在しないのです。



そう、このブログの著者なんて最初から存在していなかったのです。
昨日の記事は真っ二つに評価が分かれました。
これほど「何が何だかさっぱりわかりません!」というメールと
「全てわかりました!もうこんなふざけたブログは読みません、さようなら」というメールに
きれいに分かれたのはブログ開設以来初めてであります。

まあ昨日の記事の要約は、はやい話が「証拠を探すな」っつー事です。
常日頃から我々は常に「証拠」を探しています。

普段歩いているのも「地面に足がついている感触があるから」とか、このブログでも前に
書きましたが「空間が迫ってきているから」とか、色々なエゴを納得させるための証拠
探しています。

まず最初は肉体的な感覚から「証拠」を探し、その後は肉体を離れて空間に「証拠」を
探そうとします。で、その後さらに電波系になると認識が変わっていくと、
遂には「証拠」を求めなくなります。

「証拠」を求めなくなるとどうなるか、それは私の消滅であります。
「私は男である」と言いながら「証拠」として股間を見ても、それを「証拠」として
見ないのであります。

認識が変わらないと、この「証拠」を強烈に求めます、というより無意識に作ります。

股間からチンチンが生えている→これは私の股間である→故に、私は男なのだ。
というように「証拠」を次々と探しまくってエゴを安定させるわけです。
ですから一切の「証拠探し」を止めてしまう事です。

願望実現メソッドとかやってると、どうしてもこの「証拠」を探します。
昨日の牛丼云々でもそうですが、「牛丼が食べれるメソッド」をやっても
「でも俺、今は牛丼屋にいない!ドンブリも持ってない!メソッド成功してないじゃん!」と
なってしまいます。

これは正確に言うとメソッドの成功=何か証拠があるはずだ という強烈な思い込み
よるものです。

角度を変えて言うと、例えばウンコしたいと思って便器に座ってブリブリーと音がしたら
「俺はウンコしたんだ」と思います、ブリブリーを「証拠」として認識するからです。
実際は肛門からウンコがコンニチワする瞬間なんて見てないのに、です。

つまり、普段の動作にせよ浮かんできた願望にせよ、無意識にそれに対しての「証拠」を
勝手に想像し勝手に求めているのです。
「ナントカメソッドをやっているんだ、でもうまくいっているという”証拠”がどこにもない。
やり方が悪いんだろうか」

じゃあ証拠探しなんてやめれば良いじゃないですか、あらゆるものから「証拠」を
求めなければ良いのです。

「あれ?でも以前、願望が叶っているから研ナオコがテレビに出てるんだとか言ってたよね?」
その通りです、つまり研ナオコメソッドはこの「無意味な証拠探し」を止めるためのテクニックなので
あります。

大体証拠探しってメソッドに嵌まってるほど止められないんで、だったら何でもかんでも証拠に
しちまえという逆転の発想から生まれたのが、研ナオコメソッドの真の狙いだったのです。

昨日の記事の真意はこの辺を読み取って欲しかったのですが、あまりに素っ気無い書き方が
過ぎたかもしれません。これからは全ての証拠探しを放棄してみましょう。
日常の動作から何から何まで証拠を探さなくなった時、長い長い旅が終わるかもしれません。
リンクにブログ「ほんとうの話。」を追加させて頂きました。
このブログの執筆者は、おれんじさんというウマそうな名前の方ですが、
どうも女性のようであります。

当ブログも基本的に女性読者が多いようです、メールの投稿者の割合も
女性が6割・男性が4割って感じですね。
やはりスピ系は女性の方が入りやすいのでしょうか。

女性読者の心を掴むにはやはり恋愛ネタが良いのでしょうけど、
私自身の若かりし頃の恋愛経験を語ってしまうと「浮気がバレたらいかに屁理屈を
並べるか」とか「避妊大作戦」とかの生々しい内容になってしまうので、
基本的に恋愛ネタはあまり扱わないようにしているのです。

まあ恋愛だ何だっつー概念も結局創ったのは自分ですから、それをどうするかも自分で
あります。世界=自分に目覚めるという事は、自分が創った概念に全て責任を持つという
事でもあります。
だからこそ、概念を敵視してはいけないのです。
それはわざわざ敵を作り出すようなものです。

まあもっと追求しちゃうと「世界=自分」という概念も所詮は概念なので、
あんまりここに固執しちゃってもアレなんですが、その辺はややこしくなりそうなので
省略します。

概念が守っているものはエゴですが、エゴを守っていたとはいえ、取り敢えず守ってくれて
いたのですから、余計な概念に気付いたらその努力を認めつつ、お礼でも言って
別れれば良いのです。
「消えて無くなれー」とかベジータみたく叫んではダメです。

男女の別れもこのように美しく行きたいものですね、って読者はそんな事望んでないでしょうけど。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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