前回の記事について
「マリオがゴールに進むなら
それは最終的には自我の死を目指すという事なのか?」と
いうメールを頂きました、ありがとうございます。
これは
鋭い質問であります。
死、つまりゲームのエンディングへ進んでいくマリオを
自己と同一視するか否かに限らず必ず自我の死は訪れ
ます。要はそれが早いか遅いかだけの違いで、
ずっとマリオと自己を同一化していれば死は恐ろしいもの
に感じるかもしれませんが同一化から離れてしまえば、
そりゃゲームだからエンディングまで行くやろという
感じでそのまま終わりを見届けるという形になります。
マリオと自己を同一化していると、マリオの冒険が
次から次へと大きくなっていくように錯覚します。
つまりゲームにエンディングがあるのだという当たり前の
事を忘れ、エンディング=死という概念を恐れるように
なっていきます。
こうなると今に在るもクソも無く、エンディングまで
行かない方法は無いものかとか言い出すようになって
しまいます。
マリオを見届けているのはまさに今に在る意識なので
すが、これだとそこからどんどん外れていく事に
なりますね。なのでエンディング拒否は却って今の意識
から遠ざかっていく事になってしまいます。
もう一つ例を挙げると、仮に今何らかの本を読んでいると
して、その本の厚さで物語がそろそろ終わりそうやなとか
大体読むのにこれぐらいかかりそうだなとか
わかると思うんですが、繰り返しになりますけど
本を
手にとった最初から物語が終わる事はわかっているわけ
ですよね、それに対して特に何とも思わないでしょう。いきなり本のページが増えるわけないし、この本は
これぐらいで終わりと最初から受け入れているから
ですね。
つまりこれがエンディングまで見届けている意識で
あります。
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