「私の周りではいわゆる信心深いというか、宗教を信仰
している人がそれなりに幸せそうにしています。
やはり宗教は成功の為の人類の知恵みたいなモンなのか」 というメールを頂きました、ありがとうございます。
これは結構興味深い内容ですね、
何らかの宗教信じてますというのは日本だとオウム事件
以降何となくイメージ悪いですが、欧米だと普通に
スピリチュアル系の書籍に聖書の言葉がバンバン出て
きたり、たまに
宇宙人と神様の区別が付いてないような
本もありますが、別に特定の神様を信仰していなくても
自我は何かしらを信奉してるとは思うんですよね。
というか
信奉・信仰により自我が行動を制御する機能が
宗教ではないかと思っています。
非常に簡単な例だとウチの娘ちゃんが幼稚園に入った
ばかりぐらいの時に、寝る時間になってもなかなか寝よう
としない時は最終手段として「早く寝ないとオバケが
出るよ!」と脅すと、
( ・Д・) オバケいや!こわい! とか言ってすぐ寝て
たんですよ。
つまり当時の娘はオバケを信奉(?)していたわけで
信仰により行動を制御していたわけですね。
小学生になり、おませな女の子になってからは多少は
ビビりながらも
(・∀・) オバケなんているわけないじゃーん(笑)とか生意気言ってますが、でもサンタクロースは頑なに
信じているのがまだまだ子供ですね。
話が逸れましたが悪い事をすると地獄に落ちるとか
良い事をすると天国行きだとかの信仰を広めると、
行動を制御しやすいというのはありますね。
つまり宗教とは非常に簡単に自我を抑制・支配しやすい
のであります。
で、これを逆手に取って普段から無意識に何を信仰し、
何を行動の基準にしているかを客観的に見れば自我から
離れる事が出来ます。
例を挙げるとスピリチュアルブログに今に集中しろとか
書いてあったから今日から今に集中します!今まで過去や
未来ばかり集中してましたから!と決めたとします。
しかしこれは古い信仰(過去や未来ばかり見る)から
新しい信仰(今に集中)に乗り換えただけで
実は
何も変わってないんですよ。
なのでそこに気付けば自我が信仰している基準から
離れる事が出来ます。
別の言い方をすると肩の関節を挙げてバンザイしましょう
と言われてその通りやってたけど、肘の関節を外側に
向けて挙げてもバンザイになります、と言われてやっても
結局どっちもバンザイしてるのには変わらないですよね。
それよりも骨の配置によって結果的に肩と呼ばれる部位と
肘と呼ばれる部位があるだけです。
つまりこれ前も書きましたが
関節という機能は存在します
が関節という部位は存在しないんですよ。
それと同じで話を戻すと信仰という機能は存在しても
信仰という物体というか実体は存在しません。
つまりどういった機能の元に自我が存在するかのように
動かされているのか、という事を知れば動いている自我が
何を喚いてもそれは関係無い、つまりそれは私では無い、
という認識に至る事が出来ます。
まあ何かややこしい話ですが一言でまとめると機能が
あるだけで存在は無い、という事ですね。
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