スピリチュアル系に関して様々な考察をされている
メールとかをたまに頂きますが、考察する事自体は全く
問題無いと思いますが本質的には考察される対象に
あまり意味は無いです。
前も書いた気がしますがそもそも何でスピリチュアルを
考察するかっつーと多分何らかの利益があるであろうと
いう期待からだと思うんですよね。
これが仮にスピ系にハマるとアホになりますとかだったら
誰も考察とかしないと思います。
何が言いたいかというとスピリチュアルを知ったり
それを考察したりするのも、
一つのストーリーという事で
あります。
つまり気づきを得たとか覚醒したとかもストーリーの一部
であって、
「誰が」覚醒したとかは大して
重要では
無いです。
最も重要なのはその覚醒ストーリーも
鑑賞している者が
いないと成り立たないという事と、鑑賞している者も
覚醒ストーリーが無いと成り立たないという事です。
つまり観ている者も観られている者もお互いがお互いを
補完しているというか、二つで一つなんですね。
なのでスピリチュアルを追求するとか考察する場合、
観ている側に強く傾いてしまいがちですが、
観られている側があって初めて成立しているという
事です。
何度か同じ事を書いてますけど結局は
ルビンの壺と
同じで、顔でも無いし壺でも無いのですが
しかし顔も壺も確かに存在するかのように感じられると
いう事になります。
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