かなりぶっちゃけた言い方をすると、殆どのメソッドなる代物は、
いかにして自我、すなわちエゴの検問を通り抜けるかがポイントであります。
まあエゴ自体も光があれば必ず影が出来るのと同じで、
存在するとも言えるし存在しないとも言えるモノなのですが、
その辺はややこしいので端折ります。
で、いかにしてエゴを納得させるか。
例えば能天気なオッサンが
「世界は自分であった!私は救われた!」と
はしゃいでいるとします。で、それを見た病弱な少女が「私は病気です、
でもこれも私自身であり、私が創造したものなんですね、辛いです。泣泣泣・・・」
となってしまうと、この少女のエゴはハッキリ言って世界は自分だの何だのっつー
与太話に納得していません。それどころか余計にネガティブになって、
このままだとヤバイでござる。
しかし、発想の転換で
「病気という概念、思考、感情が真の私を通じて
世界に滲み出ているづら、なんという凄まじい創造の力づら!」と
何故かドカベンの殿馬のような喋りになって宣言すると「病気で苦しむ私」は消え失せ、
「創造の源としての私」が出てきます。「病気で苦しむ私」が消えたという事は、
「病気をどうにかする」という願望は、
実は最初から叶っていたづら!という与太話を
エゴがちょっとだけ納得してくれるかもしれません。
これはハッキリ言って
単なる言葉遊びの範疇を出ませんが、
本当の私に気付くまでは、結構この言葉遊びがバカに出来ないのであります。
実際の所、あらゆる現象は
全て外側から起こっているのではなく、フィルターを通して現れてきます。で、そのフィルターが真実の私であります。
つまりエゴと同じで「私」とは実は存在しないのですが、存在するとも言えます。
あらゆる現象がフィルターを通じて起きる際に出来る影のようなものがエゴであり、
これによって偽りの私が作られます。
ですから無理矢理エゴをぶっ殺すとかしなくても良いのであります。
覚醒している時も、影が出来ます。夢を見ているときも、やはり影が出来ます。
(夢の世界を体験している偽りの私です)唯一影が出来ないのが完全に
寝ている時で、この時はフィルターを通じての影が発生しないので、
最も真実の姿になっていると言えます。そしてこの真実の姿は、覚醒していようが
夢を見ていようが生まれていようが死んでいようが
常に在り続けてきたモノです。
誰も、何処にも悩んでいる者はいないし、苦しんでいる者もいないのです。
創造を続け、楽しむ「力」が常に溢れているだけだったのです。
PR