何回か書いていますが、受け入れろだとか許すのだとかの表現は、
やはり大変に抵抗があるようで、
「受け入れれば救われるのか」的な
方向に考えたがる人が多いようであります。
まあこれは当たり前の心理で、苦しさから逃れるには受け入れるしか
無い的な感じに捉えてしまうのもしょうがないと言えばしょうがないですよね。
なんで受け入れろだ何だというのをオススメ(?)するかと言うと、
結局は世界というものは
同時に存在しているからであります。
テレビゲームで言えば、プログラム上にゲーム内のあらゆるデータが
同時に存在しているのと同じです。
つまりキャラクターの誕生も死亡も、レベルが上がったとか呪われただのも、
キャラクターから見れば時間と共にそれらの事柄が起きてくるようにしか
見えませんが、実際はプログラム上に
全てが同時に存在しているからこそ
なのであります。
つまり喜んでいるキャラも苦しんでいるキャラも、生きているキャラも死んだキャラも
同時に存在しているというわけで、この事を体感すると、いわゆる「自我」は
どうでも良い存在となっていきます。
自我というものはある一点に焦点を定めないと存在できないわけで、
あらゆるものが同時に存在していますとなると、自我は居場所を失ってしまうのです。
で、残ったものがいわゆる本当の私とか何だとかというものです。
つまり
何時でも何処でも時間を超えて存在していた意識であります。
受け入れろだ何だっつーのは、結局受け入れる事で
実は全ては同時に存在しているものだという事に気付くためです
(多分)受け入れなくても何かの拍子に体感しちゃうケースもあるみたいですが、
やはり全て受け入れた後に大きな気付き的なモノがあるようであります。
まあ前回も書きましたが、この気付きも厄介なモンで、気付きに執着すると
また話がややこしくなるのですが、「気付いていない」と「気付いた」も
同時に存在しているので、やっぱりそれらは超越するものだと感じます。
話を戻しますが、受け入れないと、結局苦しい事と戦い続ける自我が
ずっと居座る事になります。
なので
「受け入れれば救われる」というのは表現を変えて戦い続けているだけで、
これは全然受け入れてないです。
「受け入れれば救われますか?」という問いには
「(自我は)救われない」が答えです。
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