「思考を止めて生活してみたら良いことが起きた」とか
「世界は私と気付いたので、
愛を送ったらとても心地良かった」というメールを頂く事があるのですが、
大体一ヶ月もしない内に同じ人から「また苦しくなってきました」とか
「愛を感じられなくなってしまった」みたいな内容で送られてくる事が多いです。
愛はともかくとして、思考を止めてどうのこうのはこのブログでも度々書いてきましたが、
なかなか真意が伝わらないようです。
そろそろ今年も終わりですし、難民(?)を救わねばならない時期が来たようです。
そもそも何故このような行ったり来たりの事が起きてしまうのでありましょうか、
これは由々しき問題であります。
ぶっちゃけて言うと
「間違ってるから」なのです、答えはこれだけです。
が、しかし。
「間違っている」から「では正しい答え(やり方)を求める」ではありません。取りあえず検証していくと「思考を止めて云々」「世界は私と気付いて云々」は
文章で書くと確かにこう表現せざるを得ないのでしょうがないのですが、
実はこれ
スタートの時点から既に間違ってます。間違っているという表現は語弊があるので、言いかえれば片手落ちという所です。
何でかっつーと、まず「全てのものが私」であるならば時間は存在しません。
時間が存在してしまうと「時間」と「それを感じている、見ている私」が存在するので
この時点で分離します。
同じく「愛を送る」云々も片手落ちです。
これも「愛」と「それ(愛)を感じる私」が存在するのでこれまた分離です。
で、これをまとめると「思考を止めて生活してみた」とか「世界は私であると気付いた」は
表現としては正しいのです。しかし表現は表現であります、実感は違います。
「月を示す指は月では無い」とか昔の人はカッコイイ言葉を残していますが、
これは至言であります。
理屈で言うと、「思考を止めてみました」っつー事はそれ以前(つまり思考を止めようと
する前)が
存在しなくてはならないのですから前述の「時間は存在しない」と
整合性が取れなくなるので「思考を止めて云々」は表現としてはそうなるのですが、
実は間違っているのです。
同じ理由で「世界は私と気付いた~」も「愛を送るようにして~」も間違いです。
それぞれ
気付く以前、送る以前が存在しなくてはならないからです。
「という事はこの理屈で言うとあらゆるものは
全部間違いという事ですか?
だっていかなるメソッドだ何だも
それを知る前、それを行う前という宿命からは
逃れられないですよね?」
その通りです。
ここが難しい所かもしれませんが、私たちが思考の範疇で行うものは
全て本来の「私」から離れていく、間違った試みであります。
「思考を止める」も間違いですし「何もしない」も間違いですし「世界は私であった」も
「全てすき家の意志」も間違いです、例えそう表現せざるを得ないにせよ、
「それ」を実感している世界からは間違いです
(くどいようですが、表現としては正しい)何をやっても、何を考えても間違いにならざるを得ないという絶望的な結論が
出てしまいました。 しかし、まだ手はあります。
行う事全てが間違い、本来の「私」から離れているのならば、その「離れている」事を
自覚する事により逆説的に本来の「私」を感じる事が出来るはずであります。
同じ極同士の磁石を近付けると磁石は明確に反発、すなわち離れていきますが
決して見えない「磁力」を感じる事は出来ます。これは同じ極同士を近付けるという
「離れる」行為を行なったからこそ磁力を「垣間見る」事が出来たわけです。
「思考を止めよう」とか何だとか思ったら既に「離れている」のです。
繰り返し「離れ」ていると、磁力を見る事が出来るのと同じように、
完全に思考が止まる瞬間が訪れます。
それは時間も何も無い本来の立ち位置に戻った時です。
そして何かの拍子にその止まっている状態が途切れてから、
つまり分離してから「世界は私だった」とか「愛だけでした」という感想を持つに至るのであります。
寝てる時に「俺は今、とても深い睡眠を取っている」とは感じないのと同じです、
起きてから、「よく寝たなあ」と言うのに近いです。
世界と私のラインが消えた時に「消えてる」とは思いません。
消えてると思う「私」は何処にも居ないからです。
何かを行なっている「私」も無く、生きている「私」も無く、死んでいる「私」もいない。
「それ」とか「これ」という区別も無いのであります。
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