全てを認めるとか受け入れるとかは、意外に難しいものであります。
何で難しいかっつーと、やはり現状の問題なり何なりを解決する、
または克服する(しなくてはならない)というある種の責任感みたいのを
自我のレベルで持ってしまうからかもしれません。
しかしこれも以前書きましたが、
自由意志があると勘違いしている事から
起きる葛藤であり、苦しみです。
例えば、歯磨き粉のチューブの口が
星の形とかになってれば、そこからブニュっと出てくる
歯磨き粉は星形ですよね。歯磨き粉は自分の意志で星形になっているのではなく、
星形として出てくるしかないのであります。
つまり歯磨き粉に自由意志なんてありません。
これは見方を変えれば
重圧からの開放でもあります。
何故なら星形で出て来る歯磨き粉に
一切の責任は無いからです。
歯磨き粉が星形で出てくるのは馬鹿だったわけでもなく、
運が悪かったわけでもなく、過去の因縁からでもなく、
ただ単にチューブの口が星形だったから、というだけです。
つまりこれを当てはめてみれば、あなたが(正確に言うとあなたの自我が)
不幸を感じているのも、メソッドのやり方が悪いのかもとか心配しているのも、
何だか知らないけど泣きたい気分だとかも、全てにおいて責任は無いのであります。
つまり何を感じていようが考えていようが、チューブの口が星形だったごとく
「そういうもの」なのです。歯磨き粉が、どうして私は星形で出てきてしまうのとか悩む必要は無いのと
同じで(チューブの口が星形なんだから悩みようがないですよね)何も悩む必要は無いし、
苦しむ事も無いのです。
星形で出てくる歯磨き粉は、本来自分は星形だという事すらわかりません。
星形だとわからない以上、どうして私は星形なのとか苦しむ事はありません。
しかし
見るものと見られるものという分離が起きると、そこで戦いや苦しみが起きます。
様々なメソッドやお祈りを実践しても、
行う者と行われる者という分離がある以上、
どうしても一時的な苦しみと一時的な喜びは付きまといます。
結局は国と国の
境界線上が最も争いを招くのは世の常なのであります。
様々な思考、感情、行動が出てくるのは、しょうがないのです。
しかし本来のあなたは歯磨き粉ではなく、歯磨き粉を出しているチューブの口なのですから
出てくるものに責任や罪悪感を感じる必要は全くありません。
朝起きて通勤途中に車に轢かれた猫を見ても、それは不吉の前兆ではないし、
女子高生のパンチラを見ても吉兆ではありません(
逮捕フラグです)
星形の歯磨き粉が出るが如く、
「そういうもの」なのです。
「では何故私はこんな不幸なんでしょう、どうすればチューブの口を変化出来るのか」これも既にこのタイミングでそのような思考が出る「形」になっているだけで、
「形」である本来のあなたがこの思考(歯磨き粉)について思い悩む事はありませんよね。
思い悩む事は無いって事は、つまり
不幸でも何でも無いって事です。
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