スピ系でよく言われる
思考や感情を観察する、というのは結構簡単に出来るもんです。
何かを感じれば「ああ、怒ってるわ」とか「喜んでるぜ」とか、
”観察者”になれば良いだけですから
かなりお手軽ですよね。
”観察者”は感情や思考を沈めるのには便利なメソッドであります、
「観察する者」と
「観察される対象」が存在するので分離は無くなりませんが、
自我は静まるのでとにかく落ち着きたい人にはお勧めであります。
今回はこの「観察する者」と「観察されるモノ」の垣根も取っ払っちまおうぜ、というお話です。
まず何故に
”観察者”が存在できるのかというと、当たり前ですが「観察の対象」が
存在するからであります。
我々は普段あまりにも感覚を通して何かを経験する事に慣れ過ぎています、
感覚を通して心で判断し、そして自我が現れます。
こうして
自我が世界を舞台にしたゲームに参加するのであります。
”観察者”は判断した事を観察する者です、つまり自我の動きを見つめています。
結局は
”観察者”も分離の産物なのです、その正体は
形を変えた自我そのものです。
自我は生き残るために「自らの動きをあえて見せ付け、本来の自分に気付かせない」という
露出狂のオッサンもビックリの戦術に出たのであります。
前述したように感覚を通しての判断は、あまりにも当たり前過ぎるので何も疑問にすら
思いませんが、これ自体が
既に分離であります。
全てが自分なのに「感覚を通して」世界を観る事は既に本来の自分から離れているのです。
感覚という道具を使って世界を観るという事は、その道具の使用者がいるはずで、
これでは
”観察者”と同じく分離した概念になります。
世界は自分なのですから
観れるものではありません、眼球をグルグル回しても眼球自体を
観る事は出来ないのと同じです。つまり最初から我々は本来の自分であり、
「感覚を通して世界を知るのが当たり前」といった思い込みが視界を曇らせていたのです。
この
”最初の分離”みたいのに気付くと、観る者と観られる者の垣根は崩壊します。
観る者は観られる者でもあり、そして感情も思考も本来の自分に飲み込まれ、消えていきます。
感覚も心も自我も、海から生まれた波と泡粒や水滴のようなものでした。
海から見れば、それらは存在しないのと同じです。
もう少しわかりやすく言うと、例えば風呂をかき混ぜると波や渦巻きや泡粒が発生しますが、
「それらは風呂では無い」と言うでしょうか。
何が発生しようと風呂は風呂なのです、バスクリンの入れ過ぎで
すごい色になっても
風呂は風呂です。
渦巻きや泡粒が
「風呂とは別個の存在として在り、しかもそれこそが私だ」という勘違いから
全ての悲劇(喜劇)は始まったのです。
母なる海
(風呂)は最初から穏やかにそこにあったのです。
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