ネットの普及で顔文字やアスキーアート等はお馴染みになりましたが、
自我や心も顔文字に近いものがあります。
顔文字やアスキーアートは、記号や数字の羅列なのに絵に見えます。
そこに絵が
存在すると感じます。しかしながら記号や数字が並んでいるだけなのは事実であります。
心や自我、そして自由意志も、同じようにあると感じられます。
しかしそれは顔文字と同じで、存在するように
”感じる”だけで存在しないのです。
(〇)と(☆)が
四次元殺法コンビに見えてしまうように、
そこに居ないはずのブラックホールとペンタゴンを見てしまうのです。
しかしここで確実に存在するものがあります、それは(〇)と(☆)を
成立させているディスプレイであります。
四次元殺法コンビは在ると感じるのに、背景であるディスプレイはあまり意識が
向かないのは、それだけ心や自我というものの印象が強く感じてしまうからです。
確実に在るものに気付けば、(〇)と(☆)は同じである事もわかります。
この二つ(二人?)は、ディスプレイ上の
表示形態の違いでしかないからです。
海に例えれば様々な形状の波が存在するのは当たり前で、海から見ればそれらは
波ではなくあくまで海、すなわち自らの一部に過ぎません。
というわけでやはり全ては一つであり、自我や自由意志があると勘違いして
苦しむのは、その苦しみが全て
「自分(自我)の為」から出発しており、
そして肝心の「自分」が何処にもいないから苦しむのであります。
そしてあるように感じてしまう「自由意志」を用いてどうにかしよう、しているんだと
自我には感じられるので、余計に苦しいのです。
無い道具をあると思って頑張るほど苦しい事はありません。
トンカチを持っていると思って釘に手を打ちつけても、血まみれになるだけで
何も良いことはありません。前も書きましたが打ちつけている
”行為者”、”経験者”が
居る限り、自我は必ず主体と客体の狭間でボコボコにされるのであります。
というわけで (〇) (☆)良い子の諸君!
努力したって無駄だぞ、
何故なら努力を注いでいる者も、
努力を注ぐ対象も実は存在しないからだ!
今回の元ネタがサッパリわからない人は
「良い子の諸君!」で検索してくださいね。
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