スピ系の書籍等を読むと、思考を止めてどうたらこうたらとか
瞑想してどうのこうのとか様々な方法が示されていますが、
やっかいなのはどうしてもそれらを思考を用いて解釈せざるを得ない所です。
例えば「思考を止めてうんたらかんたら」という知識を得て、それを実行しようとすると
「思考を止めようとする思考」が存在するという事になります。
これでは思考が
二つ存在してしまうので、明らかにおかしいのですが
この「思考が二つある」状態に気付かずに陥るケースは非常に多いのであります。
思考を止めて云々というのは昨日も書きましたが、実は思考・心は存在しないという
事を知るために行うものであって、思考を押さえ込むものではありません。
存在しないものは
押さえ込みたくても押さえ込めないのであります。
にも拘らず「思考止め」がよく出てくるのは、
「何かを求めて行う事は必ず分離する」という
絶望的な事実を逆手にとって、「思考を止めようとしている思考があり、
そしてその事をまた思考している思考があるという事は、思考が複数存在してて
そんなのおかしいでござる」という事を実感させるためです。
ここで初めて昨日の記事にも書いた(〇)と(☆)の
四次元殺法コンビが
消滅する瞬間に立ち会えるのです。
「思考を止めるとか何もしないって、スピ系の知識を知る前に戻るって
事かもしれないけど、ふと気付くとそれじゃ何も変わらなくね?」と
ある程度知識を蓄え、外側の事象に動揺しなくなってから
却って妙な虚しさに漂う人は多いのですが、この場合は結局思考が
複数
”在ってしまう”状態に気付いていない事が殆どです。
結局これは存在しない四次元殺法コンビを「存在するもの」として扱うから
このような迷路に迷い込むのです。
心も思考も消えたときに何が残るでしょうか、恐らく言葉で表せる物ではありません。
全てが本来の状態に戻り、
主体と客体の区別は消えたのであります。
眼球が眼球自身を見れない、右足が右足を踏めないのと同じで、
それを表す事は不可能です。不可能ですが、眼球が顔のどの辺にあるか
大体わかるのと同じで、やはりそれは在るのであります。
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