主体と客体を越えた所に
「私はいない」とか
「自由意志は無い」とかの
次元(?)があるかもしれないのですが、これは正直文章で書くのは難しいです。
しかしこの辺に関するメールも多いので改めて書いてみますが、
まあこれは
あまり深く考えなくて良いんですよ。
ちょっと苦しい例えになるかもしれませんが、今、世間ではデフレ脱却とか
インフレ起こすぜとか騒がしいですが、お金ってのは物価が安くなれば価値が高まるし、
物価が高くなれば価値は減りますよね。
つまりお金ってのはたくさん持ってると良いって価値観は実は幻で、
その価値は変動する物価によって簡単に変化してしまうのであります。
お金そのものに価値を置くか、その
裏側に流れているものに
注意を向けるかの違いであります。
もっと言ってしまえばお金そのものに実体みたいなのは無いんですよね、
まさに単なる紙切れです。
個人的な見解だと、何となく貧乏そうな人ほどお金そのものに価値があると
思い込んでいる傾向があるように見えます。
まあこれは完全に独断と偏見なんでどうでも良いですが。
話が逸れたので金の話はここまでにして、度々お勧めしているダグラス・ハーディングの
著書
「今ここに、死と不死を見る」でも紹介されている話ですが、
鏡か何かに自分の顔を映してどんどん近付いていくと最終的に自分の顔は見えなくなり、
何も見る事は出来なくなります。
つまりここで言いたいのは、お金の価値と同じく「私」というものも
鏡に映した自分との距離等といった様々な要因によって
初めて「私」が
作られるという事です。
恋人や友人の写真とかもPCで思いきり拡大したら何が何だかわかりませんが、
適切なサイズにする事で初めて「恋人」や「友人」が現れます。
世界とは結局「在るけど無い」と「無いけど在る」が
様々な要因次第で
如何様にも現れる漂う煙のようなものです。
思考や感情も煙のように形を変える不確かなものです。
ゴキブリ大嫌いな人に真っ黒い画面を見せても何も感じないでしょうが、
画像を縮小してそれがゴキブリの画像だとわかればギャーギャー喚くでしょう。
自我に関しても起きている時は在るように感じますが、寝ている時は
在りません。これまた
「在るけど無い」「無いけど在る」ものです。
しかし自我は強烈に「在る」と感じられるので、それに付随する思考や感情も
「在る」と感じられてしまうのです。こうして世界は主体と客体に分離され、
戦争が始まるのです。主体と客体に挟まれた自我(経験者)は戦争によって
ボロボロに傷付き、悩み、苦しみから決して逃れられないのであります。
この終わり無き戦争を終結させるのは核兵器でも無ければ
憲法九条でも無く、
主体と客体自体が実は存在しない事に気付く事です。
あらゆるものが煙のように不確かなものだとわかると、
別に手放すとか何だとか頑張らなくても勝手に手放してしまいます。
「実は実体が無い」ものをいつまでも持っててもしょうがないからです。
カッコ良い言い方をすれば
「今」と握手して仲直りする事です。
しかし全てを手放しても、最後には言葉による理解を超えたものが残ります。
それが
主体と客体を超越した何かです。
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