前回も書きましたが、起きている時も夢の中も熟睡も、皆同じという事が
わかると(わかると、という言い方は少し違いますが)
今までの
確固たる自我が海の中に溶けるように揺らいでいきます。
そうなると、もはや自我にとっての
問題は問題ではなくなります。ずっと気になる事があっても、ただ単にそういうものだと感じるようになり、
余計な思考が入ってこなくなります。
そもそも思考とは「自我がある」と勘違いした結果、発生するノイズみたいなもので
それ自体に何の意味も力もありません。
もちろん明日までに片付けなければならない仕事があるなら、普通に仕事をすれば
良いのです。このブログだと度々
「ゲームから降りる」という表現を使ってきましたが、
これはゲームを
「諦める」「投げ出す」「逃げる」という事ではありません。
やらなければならないと感じる事があれば勝手に行動するでしょう、
夢の中でも何かをやらなければならないと感じる場面では行動を起こすか、
やらないかのどちらかが勝手に出てくるはずです。
夢の中ではそれを自由意志に基づいて行動したと思っていますが、
夢から覚めれば夢の世界自体が消滅するのですから、夢の世界での自由意志に基づいて
いると思った行動も、元々の自由意志も、実は最初から存在しないのであります。
それと同じで起きている状態での行動も、やはり自由意志はあるように感じるだけで
実際は無いのです。結局、それぞれの「世界」で最も適した形態の「自我」が
「私は存在する!」と叫んでいるだけなのです。「ゲームから降りる」とは
その存在しない「私」の声を聞かないというだけの話です。
この瞬間に「ゲームに参加する私」は消え、
ゲーム=私となったのであります。
こうなるともはや
全てのモノには何の意味もありませんが、
同時に全ての意味を含んでいます。神様は尊いものではありません、自我が尊いと感じるから尊いのです。
悪魔も悪い奴ではなく、自我が悪い奴と感じるから悪いのです。
ゲーム=私になると善も悪も無く、全てがある種の調和を持ち、
存在しているかのように感じます。
丁度それはスーパーマリオがクリボーやクッパが居ないと優れたゲームとして
成り立たないのだという、
当たり前の事を当たり前のように受け入れる状態です。
こうして現実も、夢の中も、
あらゆる世界のベースとなっている意識こそが
アタクシであるという、衝撃の事実に気付くのであります。
「しかし現実(起きている時)には継続性があるのでは」と思われるかもしれませんが、
何かを気にしていたり、カレンダーや時計を見ると確かに継続性があるかのように感じます。
しかしそれは自我が継続性を主張しているだけであって、それ以上でもそれ以下でも
ありません。
前述したのと同じように、夢の中でも時計を見たり何かを気にしたりして
継続性があるかのように感じる場面もありますが、目が覚めれば夢の中での時間の
概念は消えてなくなるので、やはり全ては幻なのであります。
この逆で起きている時に夢の中の事をいつまでも覚えているのも、
ある意味自我が継続性を主張している状態です。
私自身も、ちょっと前の記事に書いたグインサーガみたいなオッサンに
理不尽にキレられた事を今だにムカついて、今度会ったら撃ち殺してやろうとか
思ってますが、これは何処を探しても存在しない幻が自我にとっては極めて
リアリティを持って存在しているように感じるという事でもあります。
もっと言えば起きてようが寝ていようが、自我は
存在を主張さえ出来れば良いって
事ですね。その主張に耳を傾けなくなった時、初めてゲームのコマからゲームのボードに
なる事が出来るのです。
PR