先週あたりも同じネタで書きましたが、この前もプロ棋士とコンピューターの対局が行われ、
またもプロ棋士側が負けてしまったようであります。
まあ前も書きましたが
「ゲームに参加していない」コンピューターに勝つ事は、
これからコンピューターがどんどん進歩していくに伴い、相当に困難な事になっていくでしょう。
コンピューターは将棋というゲームを行っているという認識すら無いと思います。
盤面に置かれた駒に対し、
相手も無く己も無く、ただ単に様々な要素を数値として判断し、
黙々と作業を行っているだけでしょう。
コンピューターが
「将棋を指している」と感じるのは人間の感情を通してだけで、
当のコンピューターはまさに簡単なお仕事をこなしているだけです。
将棋コンピューターには自由意志もありません。
与えられた数値に対し決められたリアクションを行っているだけで、
それらが
人間から見た場合、将棋を指しているように見えるだけです。
突然コンピューターが自由意志をもって麻雀をやりたいとか言い出して、
7六歩の代わりにそれポンです、とかは決して言わない(言えない)のです。
我々が見ている世界も、結局はコンピューター将棋の中身みたいなもので、
普段の社会生活や諸々の出来事も自我を通して見ている、感じているから
「自由意志に基づいて生活を営んでいる」ようになるだけです。
将棋コンピューターというものは存在しているのに、それが様々な数値に対して行う
リアクションの結果は「人間」という「観察者」が居て初めて「将棋」となるのであります。
これをスピ系に強引に持って行くと、「意識」は存在するが「自我」が居ないと「世界」は
出て来れないというのに似ています。
結局我々の本質は
何処にも存在しないが、何処にでも存在出来る意識なのですが、
それじゃつまんないので将棋やろうぜって事で、自我を通して様々なゲーム(出来事)を
楽しんでいるのです。
なので楽しいゲームを構成している要素全てに感謝しましょうって事で、
スピ系では愛とか感謝の気持ちとかの表現が多用されるのですね。
マリオが面白いのもクリボーやクッパのおかげです、ありがたやありがたや。
そしていつしかゲームに没頭して自我の感じる不幸や幸せを本物だと思い込んで
ああでもないこうでもないと騒ぎ出すのですが、ふとした拍子に本質を思い出し、
再び穏やかな意識へと帰るのであります。
まさに
一人の人間の輪廻転生はこの繰り返しです。
余談ですが、よく昔のSFアニメとかでロボットがいつの間にか人間の心を持ち、
最後に主人公かヒロインを守ってボロボロになって
「ワタシハ、アナタノコトガ、
スキニナッテシマイマシタ・・・オゲンキデ・・・・ガクッ」で、
「最後に人間の心を持てて幸せだった」みたいな展開がありますけど、
あれって「本質的な意識」として活動していたロボットに人間のエゴを植え付けたわけで、
全然幸せでも何でもないし、見方によっては
かなり酷い事をしていると思うのですが、
こう思ってしまうのはただ単に私の性格がひねくれてるからでしょーか。
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