滅多に実家に帰らない私ですが、連休後半は色々あって帰省しておりました。
で、実家の本棚あさってたら懐かしいオカルト本が出てきて読み耽ってしまいました。
マガジンでよくやってたMMRとかノストラダムス、
ついでに
「ショック・サイエンス」(あすかあきお)まで出てくりゃこれは懐かしいなんて
モンじゃ無いっすよ。私の子供の頃は予言とか流行ったんですねえ。
スピ系でもたまに予言を売り物にするオッサンやオバハンが居ますよね。
まあ予言とは微妙に違いますが、心臓の鼓動や血液の流れも、どのようなタイミングで
どのように起こるかは決まっているわけで、全体性から見れば結局全ては決まっており、
起こるべくして起こるとしか言えませんよね。
ここで注意しなくてはいけないのが、自我で見る視点と全体性から見た視点では
全く違うという事です。
「全ては決まっている」とか書くと自我からすると運命論のように
感じ、心中穏やかではなくなるかもしれませんが、
運命論という概念すら自我の産物であって
全体からすれば別に騒ぐ事ではありません。
そもそも自我が認識できる範囲と、全体の視点では全てが違い過ぎます。
地球のどっかに座っていれば朝と夜を見て時間を認識するでしょうが、
宇宙から見れば
朝も夜も同時にあり、時間すらありません。あんまりこういう言い方は好きではありませんが、せせこましい自我の
パワーと全体のパワーからしたら、どう見ても全体の方が偉大なので、
ならば自我に拘ってないで全体に委ねてしまえば良いのであります。
まあ自我も結局は全体の一部なんで、もうちょい正確に言うと全体である事を
思い出せば良いだけなんですが、ここで自我が生き残るために取る戦略みたいのが
「全ては己が創ったのだから、思い通りに出来るはず」という”真実”を悟ってしまう
事です。
全て創ったのも、思い通りに出来るのも真実ですが、創ったのは自我ではありません。
創ったのは全体性の方です。波が海を創ったのではなく、海が波を創るのです。
なので波が海を思い通りには出来ません、全ては海の思い通りになるのです。
「ええー、じゃあ波である俺はどうなっちゃうの」と思うかもしれませんが、
そもそも海が本来の「俺」なのだから何も心配する事はないのではないでしょうか。
少しまとまりが無くなってしまいましたが、波は海に逆らっちゃいかんのですよ。
提供してくれるものを受け取ってりゃ良いのです。
逆らって汗水垂らして頑張る必要はありません、
「受け取れるか」これだけです。
そうすれば、海はそれなりのものを提供してくれます。
ちょっと話がズレますが、私がガキの頃に遊びまくってこれたのは、
バイトに励む同級生を尻目に祖父やオヤジに小遣いをせびっていたからであります。
身内にATMがいるなら何も真面目にバイトして社会勉強したり世間と戦わなくても良い、
という私の
「長いものには巻かれろ理論」が炸裂していたのであります。
波と海の関係もこれに近いです、長いものには逆らわずに何でもハイハイ受け取って
巻かれていれば良いのです。例えそれが
自我にとって到底受け入れがたいものでも、
です。
まあ今回帰省した際にオヤジに「ちょっと小遣いでもくれね?」と軽い気持ちで言ったら
「オマエはいい年こいて金をせびりに来たのか」と
マジギレされたんですけど。
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