最近どういうわけか読者の方からのメールが急増したのですが、
大体内容は昔と同じで、
「自由意志が無いという事は流されるままという事であり、
ヒジョーに恐ろしい」みたいな内容です。一体何度目だって感じですが
私は性格が良いので今日も飽きずに書くのであります。
確固たる自分が居ると思い込むと「自由意志が無い」という言葉に非常に恐怖を
覚えるわけですが、別にこれは怪談でも何でもなく当たり前の事です。
以前も同じような事を何度か書きましたが、例えば目の前に道があったら
歩くか走るか転がるかぐらいしかやる事は無いわけで、行動や思考は現れた状況に
コントロールされてしまうのは当然なのであります。
どうしても怖くて怖くてしょうがないって人は、早い話が
「流されている」状態です。
確固たる自我があり、自我が世間という荒波にあると感じ、コントロールも効かずに
あっち行ったりこっち行ったり流されるのはトンデモない、という状態です。
これはまあ言葉にすれば
「私(自我)は幸せにならねばならない」っつー思いが
根底にあるわけですね。メシを食ったら
満腹にならねばならない、株を買ったら
上がらねばならない、体に良いとされるものを採ったら
健康にならねばならない、セックスしたら
気持ち良くならねばならない、ブログで渾身のギャグを書いたら
読者が
全員大爆笑しなければならない。で、それらが裏切られた時に
「不幸だ」となるわけです。
コントロールが効かない、という事はイコール「不幸」になってしまう可能性がある、
と自我は判断するわけで、結果として自由意志が無いという事に猛烈な恐怖を覚えるわけです。
で、先ほどの「目の前に道があったらどうのこうの」に戻りますが、
「目の前に道があるので歩くとか走る」という自我の判断はあくまで「目の前に道がある」から
存在するわけで、目の前に道が無かったら当たり前ですが出て来れません。
つまり自我というものは状況によって毎回毎回形を変えて、いかにもそこに存在するかのように
現れているだけであって、
コントロールする、しない以前のモノです。
存在するかのように振る舞うものに惑わされるから、いつまで経っても「流されている」のです。
そうではなく、
「流れている」のであります。
ボートに乗っている「私」が居るなら、ボートが川下りの途中で引っくり返ったら
これは不幸であると感じ、ひたすらもがいて「流されている」事になりますが、
誰も乗っていなければ「流れている」だけです。
「流されている」と、もがくのに精一杯で、川の流れもヘチマも無くなりますが、
「流れている」状態なら川の流れを感じる、というか川の流れそのものが自分であります。
と、こう書くと何だか難しい話のようですが、簡単に言えば道歩いてて車が後ろから
クラクション鳴らしてきたら横に避けますよね、ここで「このクラクションは神の意志で
何たらかんたらで自由意志がどうのこうの」とか言ってたら轢かれるだけです。
それと同じで
「私は幸せにならねばならない」と常にブツブツ言ってるなら
とりあえずそれを止めてみれば良いんじゃないでしょうか。
真実は常にシンプルな所にあるのです。
ただ注意して頂きたいのは、別に
「幸せにならねばならない」を止める⇒「不幸になっても
構わない」とブツブツ言い出す。わけではありません、これではボートが引っくり返ってから
「このまま溺れても良いんだ」と言ってるのと同じです、つまり「流されて」います。
あくまでも「幸せにならねばならない」を止めるだけです。
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