本来のあなたは愛なのでなんたらかんたら、感謝を持ってどうのこうの、といった
能書きは多くのスピ系の書籍にもありますし、このブログでも書いてきましたが、
どうしても
「そうならなくてはならない」と捉えてしまう傾向が多いようであります。
実際は本質が
「そういうもの」なので「そうなる」というのはおかしいのです。
が、しかし
「でも今の私はネガティブだから、このような事が起こったのでしょうか、
どうしましょう」みたいなループに陥るわけですが、
それだったらいっその事、良い事が起ころうが悪い事が起ころうが原因はわからない、
誰が何をしたわけでもない、と開き直ってしまうのも一つの手であります。
そもそも歩く時にいちいち右足から踏み出したとか左足だったとか気にしないでしょう、
「ネガティブだったから右足から歩いたのだ」「ポジティブだったから左足からだった」とか
何言ってんだって話です。
もっと言えば仮に夜中の1時に布団入って、寝たのが五分後だったとして、
そこに何か原因はあるのでしょうか。
そりゃ原因はいくらでも作れますよね、疲れてたからあっという間に寝たのだとか、
明日も仕事だから無意識に睡眠を求めていたとか、寝る前に一杯飲んだからだとか
いくらでも思いつきます。
原因とはいかにも物事が起こる真理のように見えますが、実は真理でも何でもない、
まさに自我の中にしか存在しない幻であります。
なので原因を求める事を止めれば、自我から離れた本質に嫌でもなる(はず)なのです。
と、ここまで読んできて
「でも原因を求める事を止めたら本質になれるって事は
やっぱり原因は存在するんじゃないの?」と思ったかもしれませんが、
実際は最初から「それ」なのだから「私は何々になったのだ」と確認する事は出来ないのです。
原因を求める事を止めてどうのこうのとは、あくまで切っ掛けの一部になるかもしれないって
だけであって、人によっては風呂に入れば良いかもしれないし、ビールでも飲めば良いだけかも
しれません。
「原因を求める事を止めたら?」は「ちょっと御飯でも食ってけば?」と
本質的に同じです。つまりあらゆる事が切っ掛けになるのであります。
あらゆる事が切っ掛けになるっつー事は、つまり
あらゆる事は最初から「それ」の端切れなので
あります。あらゆる事が「それ」なら、わざわざ確認作業が必要でしょうか?
確認するという事は「それ」から離れるという事です、だったら確認しなくても良いでしょう。
なので私から言える事は
「さっさとクソして寝ろ」ぐらいです。
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