一年ちょい前に友達に子供が生まれて、昨日ようやくお祝いに行きました。
私は子供嫌いなんで、友達の子供見ても欠片も可愛いとか思いませんでしたけど。
まあそれはどうでも良いのですが、たまに
「在るとか何だとかは無垢な赤ん坊と同じような状態なのか?」という質問もたまに受けます。
個人的な見解だとちょっと違うと感じるんですよねえ、
様々な刺激に対してのリアクションが、赤ん坊は泣いて伝える事であり、
成長すると言葉で言ったり、あるいは我慢したりしますが、
どちらにせよ刺激(腹が減ったとか)を刺激として認識する時点で
赤ん坊も大人も大して変わりません。つまり
「刺激と、刺激を受ける私」が
確固たる概念として存在しているのですね。
なので
「あなたは生まれる前から既に”それ”だったのだ」とかカッコつけた事を
言った所で、赤ん坊状態の時に既に世界との分離を果たしているので、
やはり”それ”に気付くための何らかの修行というか、刺激みたいのは
必要なのかもしれませんねえ。
あらゆるメソッドはどんどん本質から離れていくだけなのですが、
しかしメソッド的なものを通していかねばならない
(かもしんない)という
矛盾を突き破る事が本来の修行みたいなモンなんでしょうか。
修行、修行って書いてると何かドラゴンボールみたいですけど。
余談ですが、子供を通じて世界を見てみると、やっぱり我々の本質みたいなのは
”与える”事にあるんだなあと感じます。
友人夫婦も「この前、この子がパパと言ってくれた!」とか喜んでましたが、
何でそんな嬉しいのかっつーと、自分の子供が言語という
”他人に与えられるもの”を獲得しつつあるからって事なんじゃないかと
思います。
これがパパとかママじゃなくて、いきなりガキがポルトガル語とか喋りだしたら
親は日本語を喋って欲しいと思うはずなんですよ、日本で生活する以上は
日本語が最も”人に投げ掛け(与えて)コミュニケーションを取る”為に重要だからです。
これは前も書きましたがお金と同じですよね、お金は人に与える事が出来るから
得た時に嬉しさを感じ、受け取る人が居て初めて実体のあるものとして
機能するのであって、言葉もそれを与える(話しかける)人、
そして受け取る人が居て初めて
”ただの音”から実体として機能出来るわけです。
つまりお金も言葉も、実体としては存在出来ないのです。
お金や言葉に限らずあらゆるものをこのような視点で見てみると、
実体のあるものなんて実は殆ど存在しなかったりするんですよね、
ドラマのガリレオじゃないですけど、実に面白いっすね。
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