基本的に、気にしていない事ほど
あっという間に実現するものです。
我々は特に新陳代謝を気にせずに毎日を過ごしておりますし、
仮にいちいちそんな事を気にしていたら、かえって気が病むってモンです。
意識とは、色々と気にしている時は
どんどん縮小し、気にしていない時は
逆に
どんどん拡大していくものです。
個人的な問題を気にし始めると、どんどん世界が「私は~」「私が~」という
主語をメインに考えるようになり、逆に気にしないと、どんどん世界は拡大し、
熟睡時と同じ状態に近づいていきます。
つまり何一つ気にするものも無い、対象が存在しない全てが一つとなった状態です。
で、この状態は殆ど
想いが即実現のような世界なので、
拡大していけばいくほどあらゆるものに意味が無くなりますが、同時にあらゆるものを
生み出せる状態でもあります。
しかしあらゆるものに意味が無いので、実現しても特に何とも無いのであります。
喜ぶ自我が居ない、という奴ですね。
前も書きましたが100円馬券買って外れても悲しむ自我は居ない、って状態の
逆バージョンですね。自我が喜びとか悲しみを勝手に演出するので、
正確に言うと
喜ぶ自我も悲しむ自我も居ないのであります。
最近では参院選の際に「国会に送り込まれた
中核派の刺客を
ブラック企業の帝王が
迎え撃つなんて胸が熱くなるなあ、見てみたいなあ。
かなりどうでも良いけど」とか
思いながら寝たら、翌朝ブラック企業がまさかのギリギリ当選を果たしていた事が
実現しました。ワタミグループの皆さんは
私に感謝すべきです。
というのは冗談ですが、あらゆるものに意味が無い、という事はあらゆるものに対しての
希望も目的も無い、という事です。そもそも
あらゆる事象に意味と目的を持たせようと
するのがおかしいのであります。そんな事をするから次々と分離を生み出すのです。
意味や目的、希望を持たせるから今回の選挙結果に対し「ブラック企業の社長が
当選するのはあり得ない!」とか「日本が戦争への準備をしている!」とか
「反日売国政党がまだ残っている!」とか騒ぎ出すのであります。
そういったものを捨てれば、あらゆる事象は全て楽しむものとなります。
映画を観る目的は何かと言うと、
まず楽しむ事です。
映画の登場人物が死んだりする事にマジギレしてたら危ない人になってしまいます。
夢を見て起きた時は、夢の中で会話した人々は全て消滅、文字通り永遠の死ですが、
別にあなたはマジギレはしないでしょうし、夢の中ではあなたも、そして他の登場人物も
目的なり何なりを持って行動しているかのように見えていたでしょうが、
夢から覚めた時、それらに大きな意味は無いでしょう。
つまりあらゆる事象に目的、目標、希望を持つ事は、自我にとっては
これこそ「今」を生きているみたいに感じるかもしれませんが、
それらは
偽りの「今」であります。
希望という言葉はポジティブな響きがありますが、
逆に言えばそれは絶望への恐れを防ぐお守りみたいなモンで、
希望を持っていようが、それがダメなら気合だ根性だとやった所で
疲れるだけであります。
目的や目標を持たせて、それらがダメだったら希望という名のお札で
身を守っていてはいつまで経っても映画は楽しめません。
絶望を恐れて希望を捨てないなら、希望をまず捨ててしまえば絶望も消えます。
あらゆるものを捨てるからこそ、
全てが水面に映る月のように
美しく輝くのです。水面に映る月と水面は同じ水であり、
そして同時に同じ水でありながら違うものでもあります。
その時に初めて世界も自分も区別が無い事を知るのです。
まあ私は
「政治と戦争は男のロマン」派なんで、日本が戦争しようが
核を持とうが別に何でも良いですが、中学の時に
「沈黙の艦隊」に
ハマッた者としては攻撃型原潜を持って欲しい所ですね。
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