以前も書きましたが、我々が認識している世界は
全て幻であります。
これは夢から覚めれば夢の中の人も、夢の中の世界も、そして夢の世界にいたはずの
自分も消えて無くなるのという事が分かりやすい例だと思います。
これは逆に言えば眠りにつく時は、起きている時に感じている私自身が消えてなくなると
いうことであります。やはり起きている時に感じている
肉体や思考も幻なのであります。
しかし我々は確かに存在しているという実感を持って生活しているわけで、
その”実感”のバックグラウンドになっているものが、本来の”私自身”なのであります。
バックグラウンド自体は、眼球が眼球を見ることができないのと同じで
決して見ることはできません。なので神を見たとか高次元な存在に会ったとか
変なモンに目覚めたとかは全て
”分離した自己”が見せた幻であって
本質的なものではありません。
結局はそういった幻も、バックグラウンドを操作したいという思いの
現れみたいなもんで、これは眼球に映っている建物とか風景が眼球を動かしたいと
思っているようなもので、無理な話であります。
眼球を動かすのは筋肉であって、さらに言えば脳の指令であって、
もっと言えば眼窩が無ければ眼球自体存在出来ないわけで、つまり眼球を眼球足らしめる
バックグラウンドがやはりあるわけです。
なのでいつもの海と波の例えで言えば、波は海をコントロールなど出来ないのだから、
自由意志も持たない、極端に言えば”風景”に過ぎない思考や自我は、
ただそこに在る事しか出来ないのであります。
風景はどこまで行っても風景です。
しかし同じ風景(特定の思考、感情)に固執して、この風景こそ私であると
言っているのですから、やっぱりその風景が好きって事でしょう。
全てのバックグラウンドである事は、眠りにつく時の私がどこに消えるのか、
そして夢から覚めたとき今まで夢の世界で存在していた私はどこに行ったのか、
それを探すことでわかるでしょう。
そしてバックグラウンドに委ねる=何もしない となるのであります。
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