「世界は自分である事は、楽しいのか?」というメールを頂きました、
ありがとうございます。
結論から言うと、
何も楽しくありません。そもそも楽しいというのは楽しさを感じる対象があってうんたらかんたら、
となるとまたややこしい話になるので割愛しますが、
別に楽しくなる必要なんて無いと思うのですよ。
楽しいのだろうかとか、嬉しくなければとかは、早い話が
「苦しむ私を救う」という目的、あるいは願望があるわけで、
ならば私など存在しなければ良いのであります。
少し話が飛びますが、
全ての原点は気付きであります。
何かに気付く空間でも源泉でも何でも良いですが、
「それ」があるから思考や感情、肉体に「意識」が及ぶわけですね。
で、その「意識」に対して自我がああでもないこうでもないと
始まって終わりなき戦いが始まるわけです。
意識を意識する、意識を観察するというのはスピリチュアルでよく言われますが、
これは意識というものが存在すると認めたうえでアプローチしているわけで、
あくまで原点は「”意識に気付くという事”が生じる何か」であります。
この「何か」だけは
いかなる描写も不可能です、にも関わらず「それ」は
常に在るのです。
1時間の沈黙と1時間の音楽は、その背景にある「何か」は変わりません。
その何かがあるからこそ、沈黙を沈黙として気付き、音楽を音楽として
気付けるのであります。
その気付きが生まれる描写不可能な「何か」が無ければ
思考も肉体も生まれません、つまり思考や肉体は影と同じで
存在するように見えて存在しないのです。
光があれば必ず影は生まれます。
しかし影がどうなろうと光には関係ありません、そして光が
我々なのであります。ですから光はずっと光ってるのだから
最初からそれで何の問題も無かったのです。
こう言うと「ではボケッと突っ立ってるだけで日々を過ごせと言うのか」と
思うかもしれませんが、「ボケッと突っ立ってるだけ」なイメージ、思考に
”気付いた”のは何でしょうかって事ですね。
描写が出来ない何かこそが実在するものであって、後は全て幻です。
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