スピリチュアルの書籍なんかによくある
「意識を鑑賞する」事は
とても有益であります。
しかし、意識を鑑賞するのは、当然ながら意識を眺めている何者かがいるわけで、
結局は分離を前提にしているのですが、エゴから距離を置いて意識を鑑賞できると
いうのは、それはそれで優れたスキルであります。
が、意識を眺めていると、意識の鑑賞者がふとしたはずみで意識自身に
感動してしまう事があるのです。
職場や学校の大して美人でもない女性をボケッと眺めていたら、
ちょっとした表情や仕草に妙に魅かれる事があるのと同じです(?)
あらゆるものは意識であり、それらは己自身でもある。というのは
それはそれで良いのですが、「意識が意識に感動して」しまうと、
猛烈な高揚と感動と共に全てとの一体感を感じるものです。
しかし元々一体なのですから”一体感を感じる”のはおかしいのですが、
至福感がパねえので、そんな事もどっかへスッ飛んで
「世界はエゴによって病んでおります」とか突然救世主チックな事を
言い出すケースも多いのであります。
世界との一体感を感じたのに世界は病んでおりますってのは
おまえが病んでるんじゃないか、と言いたくなりますが
意識が意識に感動する至福感はあまりに素晴らしいので、
どうしてもそれ(至福感)を世界中に広めれば世界は平和になると
感じてしまうのです。
しかし世界には戦争もあるし地震もあるし原発もあるし、
日本にも相変わらず共産党はあるし民主党もあるのです。
問題はそれらが
外側にあると感じる事です。
意識が意識に感動してしまうと、どうしても至福が外側にあると
感じてしまいます。まあ至福を感じた「私」が居たのだから
そう思うのは当然なんですが。
しかし全ては外側から提供されるのではなく、内側に在るのです。
全てに対しての気付きそのものに落ち着く事です。
そうすれば昨日も書きましたが、描写が出来ない何か、
例えば眼球は眼球を観れませんが、しかし観ているのは眼球であると
いう事と同じ”事実”を知るでしょう。
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