「節約してお金をため込んだが、全然幸せでもないし安心もしない」というメールを頂いたのですが、これはまあ当然でしょう。
お金はいくらあっても金額で幸せが決まるわけではありません。
全財産が1万円しかない人が50万もらったら幸せかもしれませんが、
10億円持ってる人が50万もらっても別に幸せではないでしょう。
私は50万くれるってなら貰いますけど。
つまり金額の大小はどうでも良いものであり、
そしていくらため込んだ所で今度はそれを失う恐怖が出てくるので、
いくら持ってる所で、
金額イコール幸せではないのですよ。
ため込んで恐怖に襲われるぐらいなら、どんどん使えば良いと
思います。もちろんいきなり全財産で単勝一点買いしろとかではなく、
お金を使う事で何か知らないけど自分がダメージを受けたような気が
するなら、そのダメージを受ける対象を探すのであります。
表現を変えると、音というものは聴くものと聴かれるものが
無ければ存在しません。つまり
聴くものと聴かれるものは常に
表裏一体なのですが、自我は常に自分が聴くものであると
認識します。
本来一つである聴くものと聴かれるものを激突させる事で
様々な思考や感情が生まれます。
不快な音をぶつけられれば不幸だ何だと騒ぐし、心地よい音なら
幸せだとなります。
どちらにせよ、これは常に
分離と激突を繰り返しているわけで
偽りの不幸であり、同時に偽りの幸せであります。
一体ならば、常に平穏無事であるはずなのです。
話を戻すと、お金をどんどん使うとは、どこまで執着せずに
"一体"であるかを試すようなものです。
100円池に投げ込むだけで身が切られそうだというなら50円で良いし、
そうやってお金への執着を少しずつ切る事で一体に近づくのであります。
余談ですけど、修業僧の皆さんとかが滝に打たれたり厳しい修行を
しているのは、結局は全てと一体となる事を目指しているのかも
しれません。我々凡人は滝に打たれるよりお賽銭箱に気前良く
1万円札でも入れましょう。
まあ私はここ20年近くまともにお参りとか初詣とか行ってないんですが。
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