昨日の記事と少し被りますが、自由意志は存在しないので、言ってみれば全てが
プログラム通りにしか成るようにならないという事であります。
例えば私の彼女はゴキブリを見ると発狂して、ゴキブリに熱湯をぶっかけて
殺すようなキチ〇イ女に変貌しますが、私はゴキブリを見ても特に何とも思いません。
素手で掴めと言われれば掴めるぐらい平気です。
これは彼女に
エヴァンゲリオンのような暴走モードがすでにプログラミングされており、
それがゴキブリの出現というスイッチによって発動するだけなのであります、
対して私には暴走モードが搭載されていないだけなのです。
昨日の記事で自我は理由を探して来るという話を書きましたが、
実は理由はどうでもよく、最初からゲームのキャラよろしくプログラミングが
まず存在し、そのプログラミングの
発動条件がゴキブリの出現だったり、
何か他の事だったりするのです。
自我を通してだとどうしても理由ありきで考えてしまいますが、
実は理由の方が
後から来るのであります。
いかにリアルなゲームでも、キャラクターがリアルに悲しむ表情は最初から
プログラミングされているのです。
その発動条件がゲーム内のイベントだったり、あるいはコントローラーのボタンを
押したりする事なのであります。
ゲームに没入していると「目の前で仲間が殺されたからこんなに悲しんでいるのだ」
とか思ってしまいますが、まず
悲しむというプログラミングありきであって、
”仲間が殺されたから”ではありません。これは悲しむ以外にも喜んだり、楽しんだりするのも同じです、
喜ぶ、楽しむというプログラミングありきなのです。
ですから逆説的に言えば
幸せになる事に理由付けは要らないのですよ。
スピ系の書籍とかで
「今すぐ幸せになって」みたいな事が多いのはこういう事です。
”まずプログラミングが先”というゲームの仕組みに気付けば簡単な話なのであります。
もっと言えば自我なんて存在するように振舞うゲーム上のデータに過ぎないのですね、
それを今まで自分であると思い込んでいただけだったのです。
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