私が小学校の時の同級生で、
〇ホ〇の証〇の信者が居たんですよ。
ご両親が結構熱心だったようで、そいつもかなり気合の入った信者だったと
思います。まあ小学校の七夕集会で、彼が短冊に
「天皇制の廃止」とか
でかでかと書いていたのを見た時は引きましたが。
このブログの読者の方にも、宗教団体に所属されている方が結構居るみたいで、
半年に一回ぐらい
「私の所の教義だとこうなんだけど」みたいなメールが来るんですよ。
このブログはたまに宗教団体をネタにしていますが(創〇学〇とか)
あくまで話のネタにしているだけで一切の宗教に関係ありませんし、特に特定の宗教を
否定する気も無いので、その辺はご勘弁ください。
で、各宗教団体の教義は置いといて、今回は
神様は果たして居るのか否かって話なんですけど
これは居ると思えば居るし、居ないと思えば居ないと思います。
結局ですね、神の奇跡も神の怒りも、意識に映し出された映像に過ぎないという事であります。
つまり映像を見るか、そうでないかの違いなのですね。
「映像を見ている私」ですと、
結局は映像と私が分離しております。ですから自分を観る、観察してもあまり意味が無い根本的な原因はここにあります。
何故なら
「観る」行為をしている者がいるからです。
本来は観ているのではなく、
感じている、気付いているのであります。
目をつぶってゴロゴロしてても風が吹けば風を感じる、つまり風に気付くわけですが
風が存在するには風に気付く必要があるし、自分が存在するには、自分に気付く必要が
あります。
という事は自分に気付く前は自分は存在しないのですから、
自分基準で気付いているもの、つまり自分に気付いてから出てくるあらゆるものは
全て存在しないという事になります。
これで
実在の世界も明晰夢と同じになり、様々な自分基準で勝手に作っていた苦しみから
解放されました、おめでとうございます。
宗教で思い出したんですけど、私の祖父は超が付くぐらいの宗教嫌いだったんですよ。
でもどういうわけか私の祖母、つまり祖父の奥さんは
霊〇会系の教団に
入っていたんですねえ。
何故あれほど宗教を毛嫌いしていた祖父が、自分の女房が宗教団体に入るのを許したのかは、
生前の祖父に聞くと露骨に機嫌が悪くなったので、祖父が死ぬまで結局聞けずに終わり、
オヤジに聞いてもなんとなく答えをはぐらかされるので、今だに私の中で謎に
なっているのであります。
まあ私は祖母によく
「お経を読め」と言われて幼稚園の頃に仏壇の前で
つまんねーなと思いながらお経を読んでいた記憶があるのですが、
これって
新手の虐待だったんじゃないでしょうか。
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