執着というものは基本的に何を中心に据えているかで決まります。
例えば、何かをしたいと思ったとして
「絶対大丈夫だ」と思うか、
「世界は私であるから出来ても出来なくても構わない」と思うか、
あるいは
「世界は幻だから何かを出来る出来ないなんて最初から関係無い」と
思うかとか色々ありますが、これらの思考はどれも”何かをしたい”が中心と
なっています。
つまり「絶対大丈夫~」も「世界は幻だから~」もただ単に表現を変えているだけで、
実は何も変わっていません。
これでは世界は私だとか何だとか言った所で結局は漠然としたイメージから抜け出ていません。
もう少しわかりやすく言うと、ある人が
「お金が無くても大丈夫だ」「世界はお金だから
あっても無くても構わない」「お金は幻だから最初から存在しない」と言った所で、
この人は「お金」が中心になってしまっていてそこから一歩も動いていませんよね。
執着を無くすとは、
中心を持たないという事であります。
中心を持たないからこそ、逆に全てが中心となるのであります。
全てが中心になるという事は、思考が自然と止まるという事でもあります。
偏った中心があるからそれを土台として思考が始まるわけで、
それを無くしてしまえば良いのです。
”思考を止めよう”とすると、それが中心となってしまいます。
ですからそれすらも放棄すれば、我々は
全体にして一部であり、一部にして全体である、
という事がわかるのであります。
それが何処にも偏った中心が無い状態、全てが中心であって、中心でない状態なのです。
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