全ての悩みや苦しみは「私の」という概念によって始まるのが殆どです。
「私の鼻は何故低いのか」とか
「私は何故貧乏なのか」とかですが、
真に手放すというか執着を無くすのは「私は」や「私の」が完全に消える事が
肝要であります。
「花は何故咲くんでしょうか」とか
「太陽は何故東から昇るのか」だと
詩的な感じもしますが、ここに
「私の花は何故咲くんでしょうか」とか言い出すと、
途端に
「私の鼻は何故低いんでしょうか」と同じようなお悩み相談になってしまいます。
花が咲くのは、ただ単に咲くだけであって、鼻が低いのはただ単に鼻が低いだけであります。
この前もゲームの話をしましたが、「マリオは何故帽子を被っているのか」というのは
「そういうものだから」に過ぎないのです。
ここで
「帽子を脱げ」と言い出すからおかしくなるのです。
帽子を被った状態のマリオがプログラム上で完璧なのですから、
そこに帽子を脱ぎやがれと言い出せばプログラムは正常に動作しなくなります。
つまり
バグった状態であります。
「私の」「私は」どうたらこうたらは、全てバグです。
バグった状態なのに、バグに気が付かずに暴れているからややこしい事になるわけですね。
別の表現に言い換えれば、花が咲くことを邪魔しているのと同じです。
花が咲くのはそういうものなんだから、余計な事をせずに咲かせてやれば良いのです。
「私」が居ないと世界は始まらないような気もしますが、実は「私」なんて最初から
居なくて、世界は始まりも無ければ終わりも無く、
ずっと在ったのであります。
いかに今まで無数のバグでゲームの進行を妨げていたかを知るでしょう。
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