最近、某裁判官が原発再稼動を差し止めた件で、裁判官の思想的なものがどうしたこうしたと
世間が喧しいですが、結局思想的なものに良いも悪いも無いのであります。
少し話が飛びますが、これは汚いとかああいうのは卑怯だという思想も、
特にそれを汚いとも卑怯とも思わない人にとっては関係無いわけで、
全て個人の思想という狭い範疇を出るものではありません。
スピリチュアルで言えば、
「スピリチュアルセミナーとかで金をボッタくるのは最低である」という思想も、特に最低だと思わない人にとっては無意味であります。
私はスピリチュアルで商売するのは特に良いとも思わないし、悪いとも思いません。
前も書きましたが商売としては成り立たせるのが難しいと思うので、
やろうとも思いませんけど。
それ以前にセミナー否定派は
正しいスピリチュアルで、セミナー肯定派は
悪いスピリチュアルだ
的な、それこそ思想的な問題になるのはおかしな話だと思います。
これは例えるなら「正義」というあやふやな概念を、そのまま「スピリチュアル」という
これまたあやふやな概念に取り替えただけで、行き着く先は商売として正しいのかどうかという
レベルの話です。
以前の記事でも書きましたが、六甲のおいしい水とトイレの水はどちらも水なのですから、
六甲のおいしい水が正義の水でトイレの水は悪の水である、というのは妙な話ですよね。
あらゆる思想が出ては消えていくバックグラウンドである意識こそが
スピリチュアルなものであって、それ以外は全て海に現れる波みたいなものであります。
政治的な思想で言えば右も左も、スピリチュアルで言えば無私無欲の聖人も商売人も、
全て釈迦の掌の孫悟空みたいなものです。
ですから対象を取らずに、つまり何が良いとか何が悪いとかに拘らず、
釈迦の掌の認識になるべきであります。
その時に文字通り世界は、意識上の
自作自演のゲームである事がわかるでしょう。
PR