この前の記事について、今すぐ死ぬとはどういうこっちゃという
メールを何件か頂きました、ありがとうございます。
まあ一言でわかりやすく言うとですね、
リスクを受け入れるっつー事であります。
何だそりゃ、そんなの普段の生活でも仕事でもそれなりにやってるよと
仰る人も居るかもしれませんが、殆どの人はリスクを
受け入れてはいません、リスクを
取っているだけです。
例えば競馬で馬券を買うのはリスクを取る事であります。
仮に100万円買ったとしたら100万円を失うリスクを取った、という事です。
で、結果として外れたとしましょう。
リスクを受け入れるとは、ここで100万円の損失に対し特に何とも思わない、
または、もう次のレースの馬券を買う準備をしている事です。
100万円を失う、というリスクを受け入れているのだから
100万円が吹っ飛んでも特に気にしないはずであります。
ここでリスクを受け入れていない人は「予想のどこが悪かったのか」とか
「もっと研究しなければならない」とか
「武(豊)の野郎、ぶっ殺してやる!」とか
色々と思います。
もちろん反省と研究をするのは悪い事ではありません。
しかし問題はそれが100万円を失ったという
苦痛から逃れる為であってはいけない、と
いう事であります。
何故なら100万円を失うリスクを受け入れたのですから、受け入れた以上、
100万円がどうなろうが苦痛では無いはずです。苦痛でしょうがないというなら、
それは
リスクを取っているだけで、受け入れてはいません。スピリチュアルで言う、受け入れるだの手放すだってのも似たようなものです。
リスクを文字通り全て受け入れなければなりません。
多くの人はスピリチュアルを
苦痛やリスクからの逃げ道としています、
そうではありません。
例えば今、トイレに行こうと立った瞬間に滑って頭を打って死ぬか、大怪我をするリスクは
常にあるわけです。ここで「そんなのは嫌だ、すき家の意志よ助けたまえ」と願うか
「それでも全く構わない」となるかの違いです。
全てを受け入れていれば、頭を打って死のうが大怪我しようが、全ては川の流れの如く
過ぎ去るものであり、そこに恐れている自我はありません。
つまり自己は消滅し、世界が現れるのであります。
そして余計な自己、幻の自己が入り込まない世界は常に完璧であり、
大袈裟に言えば、
神が世界を通して表現するようになるのです。
まあ私もですね、顔も性格も悪い女性を嫁に貰うというリスクを受け入れ、
毎日嫁さんに怒られたり小言を言われながらも、とても幸せな新婚生活を送っています(?)
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