たまに競馬の事を書くせいか
「競馬の予想の仕方を教えて」みたいなメールを
頂く事があるんですが、基本的に私は予想とかしません。
もちろんオッズとかパドックとかは見ますけど、特に深く考えて予想とかはしないですね。
スピリチュアルっぽい話に持っていくとですね、
競馬で走ってる馬は
「自分に賭けてくれている人を勝たせよう」とも思っていないし、
逆に
「負けさせよう」とも思ってないですよね。
つまり、お馬さんはただ走っているだけなのであります。
競馬の例えがわかりづらい場合、株式市場でも同様です。
株式市場は特定の誰かを儲けさせようともしていないし、損させようともしていません。
ただ市場は存在する、それだけです。
これと同じで、意識というものは誰かを幸せにしようともしていないし、
不幸にしようともしていません。
ただ存在するというだけです。
「自分だと思っているもの」も意識の投影なのですから、「自分だと思っているもの」が
ああだこうだ喚いた所で意識は知ったこっちゃないという事です。
意識との統一とか何だとか、仰々しい表現がスピリチュアルだと出てきますが、
「自分だと思っているもの」からのアプローチだと上手くいきません。
何故なら自分と意識という、別々の物が統合されるようなアプローチになっていますから、
意識の投影のはずの自分が、何故か意識から独立して活動している事になってしまいます。
意識は幸せも不幸も感じませんし、ああしようこうしようとも思いません。なので意識そのものになるには、ああなるべきだ、こうなるべきだというのは
放棄しなくてはなりません。
競馬で言えば、競馬そのものとはただ単に馬が走っているという事だけです。
儲けるも損も無い、予想も何も無いのが
”本来の”競馬なのであります。
ですから儲けようとも損したくないとも思わず、特にああだこうだ予想もせず、
競馬と一体になる事が本来の在り方であります。
なのでギャンブルだ投資だを余裕資金で行った方が良いのは、
余裕資金なら失っても特に何とも思わないからです。
以前も書きましたが、余裕資金ならそれを失うリスクを受け入れる事が容易だからです。
競馬は、というか意識は、資金を増やそうとも減らそうとも思っていませんから、
リスクを受け入れられるという事は、それだけ本来の
意識の体現をしているという事なのです。
川の流れを知るなら外から見てああだこうだ考えるより、飛び込んでみて自ら流されれば
すぐにわかるのと同じようなものですね。
その時、川の流れと川の流れを見る自分は居なくなっています。
川すら無くなり、流れだけがあるのであります。
何だかんだで今年も一週間後にダービーですね。
結婚してから顔も性格も悪い嫁さんに競馬禁止令を言い渡されていましたが、
ダービーだけは買ってもよろしいというありがたい御言葉を頂いたので、
当日は東京競馬場に突撃する予定です。
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