スピリチュアルにおいては
「自己の思考、感情をただ眺める」という方法が
よく勧められています。
が、いずれは眺めている者も消えてゆくものであります。
以前も書きましたが、そもそも「何かを眺める」とは「眺めている者」が
居なくてはなりません。
何かが起きている、でもってそれを眺める、という事はですね
ややこしい言い方をすると
何らかの事象が起きたらその事象を眺める者が現れる、
という事象が起きなくてはならないのであります。
例えばいきなり何かがボカーンと爆発したという事象が起きても、
その爆発を眺めている者という事象が起きないと、事象は成立しないのですね。
つまり事象というものは全てを(爆発と、それを眺めている者)ひっくるめて
初めて”事象”なのであります。
ただ眺める、とは最初からある事象が成り立つために必要な要素なのですね。
しかし眺める方に焦点を置く事で余計な思考や感情から距離を置けますから
良い事は良いのです。
しかしながら結局は
事象の中に居るだけというのも事実であります。
まあこれはよく考えれば当然で、前述した何かが爆発したという事象も、
爆発そのものと、それを眺める者が居て初めて事象として成立するのですから、
これは言い換えれば
腕立てやってて右腕が痛くなってきたから左腕の筋肉に
意識を持ってきているのと同じです。
確かに右腕の痛みからは距離を置けるでしょう、
しかし腕立て伏せという事象からは一歩も出ていません。
では事象から抜け出す(?)にはどうするかという話ですが、
これは文章だと説明しづらいですが、要は全て全自動であるというだけです。
歩いたりメシを食ったりしてるのも、何かを考えたりしてるのも、
全て己の意志など無く、自動で行われているという事です。
夢を見ている時も、仮に自分が夢の中で何かやっていると思っても、
それは夢の世界で全て自動に行われているというのと同じです。
全て自動である、と言っても結局は
世界の理(ことわり)みたいのには
従って進むわけで、例えば物を離せば下に落ちるし、自転車を漕げば宙に浮いたりせずに
地面を進みます。
つまり在るのは理だけだったのであります。
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