「私は幼い頃から貧しい暮らしでしたが、努力してある程度の金持ちになれました。
努力の大切さについてどう思いますか」みたいなメールを頂きました。
この方が努力を重ねて結果を出した事は大変に素晴らしい事です。
少なくとも私のようなボンボン育ちには無理です、本当に立派な方だと思います。
しかしながら私は努力とか何だとかは特に何とも思っていません。
前も書いたと思うんですけど、努力した所で結果が出るかどうかなんて
わかりません。例えば私は一時期ベンチプレスの重量をあげたいと思って
それなりの努力をしていましたが、ある日ジムのサウナで世間話をしたオッサンの
アドバイスで、次の日から重い重量を挙げる事が出来るようになりました。
これは私が努力したとか才能があったというより、オッサンが素晴らしいだけで、
オッサンのアドバイスが無ければ今でもベンチプレスの重量は停滞していたでしょう。
つまり何がきっかけでどう転ぶかというのはわからないのですから、
わからないなら気にするなという事です。
努力している、という自分があると、どうしても努力が報われないのは何かが
間違っているからだ。
という結論になりやすいですが、何がどうなるかわからないのですから
わからないものを気にしてもしょうがないでしょう。
ですから努力というものは、努力しているという感覚・もっと言えば
努力という
単なる言葉だけであって、何かに影響を及ぼすものではありません。
何にも影響を及ぼさないのに
「こんなに頑張ってるのに報われない」とか思って
過ごすのは精神衛生上にもよろしくないと思われるので、それなら何かをやる時に
努力しているという感覚をとっぱらった方が良いと思います。
全ては呼吸と同じくただ行われているだけです。
そしてただ行われている呼吸に特に何の問題も無いのと同じで、
ただ行われている事が最も問題が無い完璧な状態であり、本来はその状態が
デフォルトなのであります。
行うのではなく、行われている というのが重要と言えば重要ですね。
まあ貧乏だ裕福だって感覚は環境との分離
(私がこの環境を経験している)と
周りとの比較が殆どだと思うんですけど、それから逃れたいという動機から努力して、
色々あって結局逃れる必要は無かった、とわかる人も多いと思うんで
あくまで
通過点としての努力は必要なのかもしれないですね。
周りとの比較は完全に相対的なものなので、比較自体が意味の無いものです。
まあ私はこの前色々あって、嫁さんから「お義父様は立派な方だけど、
アンタは立派でも何でも無いね」と言われて軽くへこみました。
やはり比較は良くないと思います。
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