「身内がめちゃくちゃ憎くて何年も苦しんで欲しいんだけど
どうすれば良いの」的なメールを頂きました、ありがとうございます。
これは具体的な手段をどうこうより憎しみの感情をとりあえず消してしまう方が
良いと思います。というか憎いという感情さえ晴れれば万事OK(?)なわけですし。
感情でも何でもそうですが、あらゆるものは観察するから存在するわけです。
観察して、認識して初めて出てくるわけですから、逆に観察されるものから
見てみると、何故か消えてしまうのであります。
簡単に言うと、自分→感情や思考 だと、むかつくとか嬉しいとかといった
名前でも属性でも何でも良いですが、自分がそれらを感情にくっつけてああだこうだ
騒ぐわけであります。
逆に 自分←感情や思考だと、感情や思考に名前や属性をくっつけて騒ぐ主体が
居なくなるので、実は何も起きてはいないし、最初から何も起こってはいなかったと
いう事がわかるのです。
自分→感情や思考 だと世界は成り立つのですが、
逆だと全てが一瞬で無くなり一つになるのが面白いですね。
哲学的に言うと、果たして
自分という者が憎しみを感じているのか、
はたまた憎しみというものが現れるためにわざわざ自分という媒体を作り上げているのか、とかの話になりそうですが、そんな小難しい話はどうでも良い事です。
というか書いてる私もよくわからなくなってきました。
結局、世界は夢のようなもので、我々は常に夢の世界を彷徨っているわけですね。
夢の中では様々な事が起きていますが、同時に何も起きていないのと同じです。
で、話を冒頭に戻すと、憎しみの感情も実は存在しないとわかった所で
どうなるかと言いますと、特に何も起きないと思います。
しかしながらもう憎いという感情が無いのですから、憎いと感じるような事も
無くなるでしょう。もしかしたら身内が事故にでもあって死ぬかもしれないですし、
或いはどういうわけか劇的な和解をするかもしれません。
その辺はあまり具体的にどうこうしようとするとややこしいので、
放っておいた方が良いでしょう。
ある特定の感情をどうにかしようとするより、その感情の源泉にアプローチした方が
話は早いという事ですね。そしてその源泉とは、
実は何も起きていない、という事なのです。
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