明けましておめでとうございます、去年の締めが
「夜は墓場で運動会だぜ!」だった
ブログはこちらです。本年もよろしくお願いします。
新年早々突然ですが、何故、本来は何一つ不足も無く、全て一つなのに
不足を恐れたり、全て一つから分離してしまうのでしょうか。
結局の所、死を恐れている、というか
死の概念を恐れているという事です。
どんな悩み、恐怖でも、行き着く先は死にたくないっつー事に落ち着きます。
死への恐怖は、いわば
小林幸子、つまりラスボスなのです。
これを解消するにはどうするか、それは
”熟睡に落ちる瞬間”を認識しようとすれば
良いのであります。
実際やってみるとわかりますが
”寝る瞬間”てのは認識出来ません、
つまり存在しないのであります。同じ理屈で死ぬ瞬間もわからないので、
死も存在しません。
存在しないですが、寝てた場合は目が覚めた時に「寝ていたのか」とかの思考を認識する事で
”寝る瞬間”が存在するように連想によって感じるわけです。
認識出来ないものは存在しない、なので死は存在しないという事がわかったので、
死を恐れる必要は無くなりました。幽霊が居ると言われる心霊スポットでも、
実は幽霊は見間違いで、何処にも居なかったとわかれば幽霊を恐れる事も
無くなります。
小林幸子は、存在しなかったのです。
こうして
”死ななくなった”わけですが、死とは生の反対でもあります。
死が存在しないのですから生も存在しないのです。
”死ななくなった”と同時に”生きなくなった”でもあるのです。
同じ理屈で
”熟睡の瞬間はわからない”、つまり熟睡自体が存在していないのですから
その反対の
”起きている”という事も実は存在しないのですね。
ここから先は、文章で説明するのは困難ですが、
”死んでいるわけでもなかったし、生きているわけでもなかった””寝ているわけでもなかったし、起きているわけでもなかった” 事が
事実であると受け入れられれば、何かが変わる、かもしれません。
まあ私は死を恐れなくなっても嫁さんは恐れますけどね。
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