「何か色々やったけど、許すとか愛すとか疲れた」というメールを頂きました。
その方は外側はコントロール出来ないし、もしかしたら内面もコントロール出来ないのでは
なかろうか、私に出来る事は何も無い、と感じたそうです。
これは全くその通りで、私に出来る事は特にありません。
重要なのはその方が「私に出来る事は何も無い」に続いて
「ポジティブな感情の時は
何もしないのに、ネガティブに対しては色々対処しようとする私も変だと思う」と
自分で殆ど答えを書いている事ですね。
これは確かに妙な話で、ポジティブとネガティブを勝手に判断して
勝手に色々やり出すのはおかしな話です。
そもそもポジティブだ何だとかは、立場によって全く変わります。
自民党支持者なら自民党が選挙で大勝すれば
「自民党最高や!」となるでしょうが、
民主党支持者なら面白くないでしょうし、その逆も然りであります。
つまりそれらは意識というバックグラウンドに現れるパターン的なものであって、
それ以上でもそれ以外でも無いのですよ。
そのパターンが出るのは、決まっているのであります。
例えばマリオがカメに激突したら死ぬのは、必ず出るパターンであって、
別に良くも悪くも無いのです。
マリオの立場ならカメに激突するのはネガティブですが、カメからしたら
ポジティブです。肝心なのはそれらを創造するバックグラウンドだけが
真に存在するものであり、後は幻であるという事です。
どのような思考で、どのような感情を持つかは、マリオがどうやってジャンプして
どうやって走るかが常に決まっているように、最初から決まっているのであります。
問題は自分がマリオだと思っていると、
同じパターンの繰り返しを自分だと思い、
それらを個人的な事と取ってしまう事です。
Aボタンを押せばマリオは飛ぶ、Bボタンなら走ると反応は決まっているのと同じで、
仮にある人物が自民党のポスターを見たらむかつく、共産党のポスターは何か応援したくなる、
というのもマリオの反応と同じです。
ただ単にAを押したらむかつく、Bを押すと応援したくなるってだけなのです。
この
単なる反応を個人と置き換えてしまうから問題が生じるわけです。
反応は個人では無い、ならば個人と思っているものは何処に居るのかって事ですね。
PR